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中山町誌

一、 きもの

 (1) 赤ん坊のきもの

 出初めの祝着としては、手織の慰斗目模様五ツ紋の上着に、色ものの下着を重ねた二枚重ねを母方の里から祝として贈るのが昔の慣習であった。しかし、普通の家庭では、紋付でなく柄ものの着物で祝うのがほとんどであった。
 女児は、模様又は柄物である。下着は胴着に晒か、メンフランネルの襦袢を着せ、よだれ掛けをする。この祝着は、赤ん坊に直接には着せず、抱いた上から被せ、肩で付紐を結んで落ちないようにした。
 赤ん坊は、外出のとき抱いて行くことなく、背におんぶする習慣であるが、黒・紺色などのビロード、又は普通木綿の生地で綿を入れた太い紐で負んぶし、ねんねこ半纒を着せる。

 (2) 子供のきもの

 男児
 赤ん坊時代の一ツ身の着物が着れなくなるに従って、手織縞の筒袖の着物をきせた。
 着物には付紐をつける。付紐だけで一般に兵児帯はしめない。三つ四つになる迄、挺掛けや胸かけをかけていたが、昭和初期からはエプロンをする児もあった。
 就学の年頃になると、縞の手織の筒袖の着物に、筒袖の羽織を着せた。シャツは着なかったが、短いズボンをはく者もあった。冬は綿入れの着物に袷の羽織か、綿入れの羽織を着て、前掛けを締める者もあった。又学校から遠い子は、雨や雪降りには、毛布やケットを着て通学していた。
 儀式やよそ行きには、手織の袴をはく者も稀にはあった。又地織りの絣の着物をきる者もあったが、紺絣を着るようになったのは、大正時代の初期であった。伊予絣を着る児は稀で豊かな家庭の児であった。
 昭和初期になると、小学生で洋服を着る者も稀には見受けられた。パンツをはくようになったのもこの頃であった。昭和一四、五年頃から学校を通じて洋服や運動靴が安く配給されるようになり、洋服を着る者が増加してきた。夏は霜降りの夏服、黒い帽子に白の覆いをかけた。冬は黒い小倉服を、寒くなるとその上にデンチを着る者も戦前まであった。

 女児
 大正の初期頃まで女児は縞の木綿の筒袖の着物で、式典の時などは、袂の着物にエビ茶の袴をはいたようである。なお染絣が出始めたが比較的稀であった。又この頃から豊かな家庭の子女は、元禄袖を着るようになった。
 昭和一〇年頃になって夏は簡単服、冬はセーターにスカートを着用し、靴下をはく者も稀にはあったようである。
 昭和一四・五年になると、小学生は体操の時には、白シャツに黒のブルマーをはくようになった。
 終戦後はほとんど服にモンペで、中学生はセーターとともにセーラー服を着る者が多くなり、小学生は低学年を除いて着物姿は全くといっていい程見られなくなった。ただ冬期は服の上に羽織か綿入れまたは、半纒を着ていた。
 最近は、中学生位までの子供は、男女の服装の差がなくなってきた。つまり、一〇代後半のファッションと同一で、ただ、身体に合わせてサイズを小さくしただけのものとなっている。パンツは、ジーンズまたは綿生地のものをはき、上着にはジーパン生地のジャンパーに、ハーフコートの重ね着姿が一般的である。若者のあいだでは、特にスポーティな服装が流行し、都市と地方の差は、ほとんど無くなってきた。

 (3) 大人の服装

 男性の衣服
 明治時代から大正中期まで、一般には手織の縞の着物に、メリンスなどの兵児帯をしめ半纒を着ていた。豊かな家庭では絹物の縞の着物に、ちりめんの帯をしめた。それに同じような縞物の羽織を着ていた。
 明治初期から中期にかけて、冬季など外出の時は、赤ケットを着ていた。赤い無地で裾の方に黒い線の入った毛布を外套代りに使用したものである。
 その後、トンビといって、袖が短い二重廻しの一種がケットに代って出現した。洋服の上にトンビを着る者もあった。
 明治末期になると、インバネスという、トンビと同じ型のもので、着物と同じ位の長さのものが着られるようになった。大正末期になるとマントが非常に流行した。
 祝儀服には絹物の縞の着物と、斜子の黒の五ツ紋付の羽織に仙台平の袴をはいた。夏は黒五ツ紋付の絽の単衣羽織を着ていた。
 背広は、明治三〇年頃から出始めた。日中戦争から召集の影響で軍服を着る者が多くなり、殊に太平洋戦争中は国民服が制定され、外出にはゲートルを巻かねばならなかった。戦後一、二年間は衣料品はまだ配給制で、キップがなければ入手が難しかった。そこで、たんすに寝かせていた衣類をとり出して着用したものである。
 戦後になって経済の成長期に入ると、衣料品も従来のスフ、人絹に加え、ナイロン・テトロン・ビニロンなどの合成繊維ができ、洋服が流行し、日常生活における衣類は洋服化して、着物姿はほとんど見かけなくなった。
 戦前、結婚式にモーニングを着るものも稀にはあったが、戦時中は国民服(甲号・乙号)となり、おおむね簡単・質素であった。しかし戦後物が豊富になると結婚式の服装も華美となってきた。男は羽織袴かモーニングでこれらはほとんど貸し衣装を利用しているようである。また最近は男の略式礼服が流行し、儀式・婚礼・葬儀などで着用している。

 女性の衣服
 絹や木綿の縞もの、または小紋といった細い柄ものの長袖の着物に、丈の長い羽織を着ていた。
 帯は黒繻子と柄ものの腹合せ帯をしめていた。
 祝儀の際は黒裾模様に丸帯であるが、普通は縞の着物に、せいぜい黒紋付の羽織ぐらいで間に合わせていた。
 葬儀の際若い婦人は、昭和五、六年頃までは、喪服の代りに裾模様のある祝儀用の着物を着ていたが、太平洋戦争中は、町葬や一般の葬儀が多くなるにつれて、喪服を着る者が多くなって来て現在に及んでいる。
 明治の中期から大正の初期まで、女児や娘のあいだで羽織の代りに「被布」を着る者もあった。道行きコートに似た仕立てで、胸のところに打紐を花形に結んだふさ飾りがついていた。
 明治中期頃まで外出用として、三角形の毛糸編の肩掛けが流行するようになった。その後大正時代になると、長方形の長いショールに変っていった。戦時中全国的な運動として長袖を短く切ることが奨励されたので、元禄袖を着る者が多くなっていった。
 戦時中は婦人会の会合が多くなり、婦人も外出の機会が多くなったので、気軽く着られ、しかも便利な会服が制定されて、誰もが着るようになった。
 昭和二八年頃からは半反で作った短いチャバ織の羽織が流行しはじめた。
 戦後は洋服を着る者が多くなり、夏季の着物姿は稀になった。さらに、テレビ等の影響もあって、都市と地方の差がなくなり、服飾の面では全国的に均一化してきた。ロングスカート・ミニスカート・パンタロン・ショートパンツなどが流行したが、ジーンズ・Tシャツ・夏用のホットパンツ・木綿のコットンシャツなどの出現で、男女の衣服の違いが少なくなって、性別の判らない若者の服装も出現している。

 (4) ふだん着

 男
 夏冬とも手織縞の着物で、冬は袖無しの綿入れや、デンチを着ていた。
 明治時代は、下着は襦袢やシャツで、縞のもも引きをはいていた。江戸時代には羽織は名主などの外は、百姓は着ることが出来なかった。その習慣が続いていたためか、或は不便であったためか、平常は着ていなかった。
 シャツは縞などの手製のもので、明治三八年頃メリヤスシャツを着る者もあったが極く稀であった。一般には手織木綿かフランのシャツであった。
 日露戦争後には手拭地の浴衣が出始めたが、大正の初期頃から絣の着物や、なんどの片びらなどを多く着るようになった。帯は黒色の兵児帯をしめていた。昭和の初期頃から浴衣に変っていった。
 終戦後は夏はシャツ、冬はシャンバー等が多くなってきた。又Yシャツ、開襟シャツ、丸首シャツが一般化した。丸首シャツを盛夏には上着代りに、冬は肌着代りに着ていた。
 終戦後一時期は、復員者が軍服を着、払下げや配給品により、一般の人の中にも軍服を着る者が多く見受けられた。戦後しばらくしてセーター・ジャンバーとなり、若い人はジーパンが流行し服装が多種多様になった。

 女
 手織縞の木綿を、夏は単衣に、冬は袷に仕立てて着て、長い前掛けを締めた。帯は半巾帯で、横糸に紙を用いた手織の帯を、明治三〇年頃まで一般に織って、これを締めていった。
 冬は上に綿入れの袖なしや、ねじり袖の半纒を中年以上の者が着、娘などは、元禄袖の半纒を着ていた。下着には半襦袢の手織木綿の格子縞の腰巻をしめていた。
 その後、綿フランの腰巻を用いるようになり、娘は赤無地などを使うが、一般にはやはり格子縞などの黒っぽいものを使っていた。
 昭和の初期からは、冬は毛糸のメリヤスの腰巻をしめる者も現れるようになった。
 昭和一〇年頃から、夏はアッパッパといって浴衣地などで簡単な洋服を着るようになり、娘は勿論、老人もほとんど夏は皆簡単服を着るようになった。同じ頃簡単服と共にスカートが流行し、人絹・絹・レースのキャラコ地で作られた。
 昭和の初期から終戦までの間に、エプロンといって割烹前掛をかけるようになった。
 第二次世界大戦中は、衣料不足となり、衣料更生がさかんとなった。女子ではモンペが出現し、また防空服といって、半襦袢ぐらいの上着に、同じ布地でモンペを作り使用した。戦後は作業用として相当多く用いられ風土化した。そしてモンペにエプロンをつけるようになった。戦後もモンペが長く用いられたが、現在ではそれがほとんどズボンに変っている。
 昔からふだん着は仕事着におろし、そのままもしくは更生して着用してきた。しかし近年は物が豊富になり、生活にも余裕ができ、次第にぜいたくになって修繕して使うことなく、使い捨てるようになった。仕事着も仕事着として新しいものを着用し、更生した物などあまり見かけなくなった。現在不景気になり、節約が叫ばれるようになっても、服装にまではその影響はまだ現れていない。


 (5) 農作業と服装

 明治から昭和初期にかけて、男は股引きに襦袢または厚司を身に付け、ボタン・ゴムなどなかったので紐で結んだ。顔は手拭で頬被りをした。頭には編笠やたくらばちをかぶり日除け、雨除けとした。また、手には甲かけまたは腕抜きをし、足はわらじか足なかをはいた。わらじのときは、わらじかけといって足袋をはく。明治末頃にはゴム底地下足袋が出廻りはじめ、現在のような作業服は、昭和初期より戦時中に着用され始めたものである。
 女子は、木綿の筒袖の着物に腰巻をし、前掛けを付け手拭をかぶった。また手袋、甲かけをし、足はぞうりまたは足なかをはいた。雨の日は蓑を着て頭には たくらげち をかぶったようである。
 昭和になってエプロンを掛ける人もあった。そのころは簡単服を用いるのが多かった。戦時中からはモンペ姿となり、防空頭巾や地下足袋も用いるようになった。

 (6) 袖付き蒲団

 江戸末期に使われたといわれる袖付き蒲団が、永木の城戸庄五郎宅にある。これは紺木綿の綿入りの夜着で、全長が約一七〇センチメートルあり、当時大洲藩お目付け役が宿泊の際着用したといわれている。
 化学染料の普及する以前の染色は、天然の植物染料を用いて染めあげた。さまざまな染色方法を伝えてきたが、藍染めだけは中山の紺屋に頼んだ。この袖付き蒲団もこの藍染めである。