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中山町誌

六、 燈森三島神社

 鎮座地 中山町大字佐礼谷甲一四六五番地
 祭 神 大山積神・雷神・高おの神
 若宮社 七福神・五男三女神 末社としての社で、安政四年(一八五七)建造の楼門であったが、昭和一六年に「若宮社」として改造。
 例 祭 一〇月一七日
 氏 子 二八三戸佐礼谷全域
 本 殿 流造、銅板葺、間口三間、奥行一・五間、四坪
 幣 殿 銅板葺、間口二間、奥行四間、八坪
 神饌所 間口一間、奥行二間、二坪
 神職控所 間口一間、奥行二間、二坪
 拝 殿 木造入母屋造、銅板葺、間口六間、奥行四間、二四坪
 立拝所 間口二間、奥行一・五間、三坪
 社務所 間口七間、奥行五間、三五坪
 鳥 居 一基 明神型、御影石、明治三九年六月建立。
    日露戦争終結記念
 狛 犬 一対 御影石、明治二一年九月建立
 手水舎 銅板葺、間口一間、奥行一間、一坪手水洗 明治三一年竹之内本組奉献
 神 庫 瓦葺、間口三間、奥行二間、六坪 昭和二〇年宮田益雄氏建造
 神名石 自然石「燈森三島神社」と明記 明治一五年壬午二月建立
 忠魂碑 昭和三年(一九二八)一一月岡田定蔵が中心となり村民の英霊を偲んで建立
      合祀一九二柱の御霊が安置され、毎年佐礼谷郷友会主催による戦没慰霊祭を行う。また、「大東亜戦争終結四〇周年」を記念して、「戦没者霊記」と「黎明」という記念碑を佐礼谷郷友会有志で昭和六〇年に建立した。
 玉 垣 昭和五六年一〇月建立
     以前から懸案だった玉垣を佐礼谷全域の協力により、境内上下段全長五〇メートルにわたり、今岡アキヨ石材の施工で完成。
 境内地 八四九坪
 社 叢 古樹大木、本殿左に聳える御神木、銀杏の樹齢は判明しないが、周囲五メートルに及ぶ二本の根本は雌雄合体しており、秋にはみごと黄葉し人々の心を和ませている。
 宮 司 渡漫  一

 由緒沿革
 当社保存の社殿建造棟札によると、正慶二年(一三三三)佐礼谷村中替地幸身に鎮座されていたものが、寛文六年(一六六六)六月二二日に焼失されたとある。その後、元禄一四年(一七〇一)に至って、現在の場所を社祠と定める(村の中心と考えたのであろう)。
 社殿再興の寄付を集め、宝永元年(一七〇四)一一月六日に三島社に勧請鎮座せられたものである。その後も再度の火災にあって由緒は不明である。
 幣殿・拝殿も草葺の社殿であったため老朽化し、昭和一二年(一九三七)一〇月に「木造入母屋造」銅板葺として改築された。当時の拝殿改築について記す。故安部美稲宮司の造営計画で進められていたが、工事途中で没し、息子安部美男宮司が受け継ぎ竣工落成した。
 用材は氏子の有志の寄付により集められ、主要な材料はほとんど足りたようであった。工事になると氏子総奉仕で、地均し・地固め・境内の警備等に奉仕し合い子供たちまで手伝いに参加したと聞いている。
 この事から察すると、氏子の人たちの郷土愛があり神社に対する弥栄の祈願、この時代の遺家族の安全を祈る心が、日夜の奉仕活動となったものであろう。苦労に耐える神社崇拝の氏子の信仰の熱意が窺える。
 その後五〇余年経ったため屋根に雨漏りがするようになり、平成五年一〇月に改修された。