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中山町誌

三、 川崎神社

 鎮座地 中山町大字出渕二番耕地六〇番地
 主祭神 孝霊天皇・菅原道真公(孝霊天皇は第七代)
 配 神 彦狭命・越知命・素盞鳴命・応神天皇・猿田彦命・秋津姫命・大忌貴命・保食神・菊理姫命
 境内神社 牛頭天王社(素盞鳴命)
 例 祭 一〇月一七日
 氏 子 二二〇戸、出渕五部落(豊岡・漆・日南登・福岡・平沢)
 本 殿 亜鉛板葺、間口一・五間、奥行二間、三坪
 幣 殿 瓦葺、間口一間、奥行三間、三坪
 拝 殿 瓦葺、間口四間、奥行三・五間、一四坪
 神 庫 瓦葺、間口一間、奥行二間、二坪
 鳥 居 一基 文化一〇年(一八一三)建立
 注連石 一対 昭和一二年建立
 狛 犬 一対 刻字磨滅
 燈 龍 一対 天保一三年(一八四二)建立
 手水鉢 一基 寛政八年(一七九六)奉納
 手水舎 銅板葺、間口一・五間、奥行一間、一・五坪(平成二年新設)
 境内地 一四一・三九坪
 社有地 六五〇坪
 社 叢 古樹大木、くま笹繁茂
 芸 能 舎儀利(各部落交代) お供角力(平沢部落の子供)
 宮 司 妻鳥 尭寛
 その他 川崎クラブを氏子有志で昭和三〇年代頃に結成し、スポーツ、お宮への奉仕並びに社会奉仕、家族ぐるみの一日慰安旅行など実施。昭和五三年に神社庁伊予支部総代会より感謝状を受く。現在は活動をしていない。尚、平成六年九月神宮大麻暦頒布率優秀につき、神宮大宮司より表彰される。

 由緒沿革
 第五三代淳和天皇の天長元年(八二四)甲辰八月二四日の創立と伝えられ、大宝律令撰定律書残篇の中にある浮穴郡出部の郷というのが、出渕となり、当社を氏神として創始されたという。後に祭神孝霊天皇に菅公(菅原道真)を合祀して天満宮の御社号を称えた。室町の末期第一〇五代後奈良天皇の天文二〇年(一五五一)に出渕出雲守仙波盛景が伊福城の城主となってからは、河野家の由緒を重んじ、特に当社を氏神として崇拝し、子孫も代々その意志を受け継いで尊崇してきたようである。江戸時代に入ると、大洲藩主の崇拝一入篤く加藤泰候が自書した「天満宮」の扁願を献納されたほどであり、現在も拝殿に掲額されている。
 川崎という社号は、いつ頃から呼ばれだしたものかは不明であるが、中山川・栗田川が合流している崎に在る社という意味からきているものらしい。
 なお、社殿に関しては、貞享二年(一六八五)に再興され、安永三年(一七七四)に改築、その一六年後の寛政二年に修繕し、その後改修修繕を重ねつつ、現在に至っている。平成二年社殿改築・境内改修を行い、さらに平成六年には拝殿の屋根修理、中殿の改築を行い景観を新たにしている。