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中山町誌

八、 観音堂

 山 寺 号  秦皇山観音堂
 所 在 地  中山町出渕六番耕地一二二三番地
 法務管掌  臨済宗妙心寺派盛景寺
 創   建  弘化三年(一八四六)
 本   尊  十一面観世音菩薩

 由   緒
 当堂は、海抜八七四メートルの高峰にあり、その頂上に約一二五坪の境内地を有し、樹木繁茂、静寂、遠く松山方面、瀬戸内海、四国山脈を一望にし眺望絶佳の霊地である。
 江戸時代末孝明天皇の弘化三年(一八四六)、奇異なる修験僧某、当山に登り石塊を積み石室を作り、観世音菩薩像を安置し朝に香を焚き、夕べに水を献じて礼拝を怠らず念誦に勤めた。この篤信の行状は当地の住民の知るところとなる。修験僧二一日間の厳しい修行を行じ終って麓の一民家に降り、「我は霊山地を順歴し霊地を求めて観世音菩薩像を安置し顕著なる霊験を給わらんことを多年の宿願とせり、然るに末だ一山として適当と思われるお山に巡り合うことが出来なかったが、このお山こそ、我のたずねる三方流の三盛山である。故に今開山して十一面観世音菩薩を勧請しおきたり、汝等よく衆人に広く告げ、もって不可思議なる尊い霊験を受くべし。また、このお山に水なきを遺憾とし、未の方一丁降りたるところに清水の湧出る所あり、清水溜をつり祈祷しおきたり、この水にて身心を浄め観音様に一心に念誦し霊験あらたかなる利益を受けられよ」と言葉終るやその姿は、たちまち消え失せたという。
 この僧の霊言は間もなく里人に広まり、お山に登り見れば果して石室に尊像安座し、未の方一丁降れば誠不可思議、清浄なる水溜があり、その側に黒染の衣が掛けてあった。里人はこの衣を水溜りの上に納め、この僧を尊い大師とあがめ、この水溜りを「衣川」と名づけると、由来記にある。
 その後、明治時代当初の寺制改革によって、当堂は大洲竜護山曹渓院の管轄となり、当堂の本尊仏具等全て、曹渓院に移され尊崇の対象像を失った。
 明治二七年(一八九四)小池組上東長太郎ほか数名、盛景寺渕岩和尚に請い曹渓院より本尊を旧位に安置するよう請願し、許されて宿願を果し無事再奉遷された(曹渓院への請文書盛景寺所蔵)。
 その頃より、小池組の信者が中心となり本堂宿坊等を新築、高山頂には珍しい堂々たる伽藍が建立され、堂守りが常住、縁日には茶店・出店が軒を並べ、参詣者も町内外から列をなして登山大いに興隆したが、大正七年(一九一八)火災に遭い、伽藍全部を焼失。翌八年、篤信者多数の助力により本堂・鐘楼堂・通夜堂・寺務所等総建坪七一坪を再建復興した。
 大正一三年小池組久保菊五郎等を中心に当堂護持のため、「秦皇山信仰会」を設立、信仰会を中心に昔日の隆盛を取り戻した。
 戦中、戦後も信仰は変わりなく繁興する。本尊再奉遷の日が旧暦七月九日であったので旧暦三月九日、七月九日を春夏二回の縁日と定めた。戦後昭和二四年(一九四九)戦時中に供出した梵鐘再鋳の議が興り在番盛景文翁和尚、信者の助力により盛景寺梵鐘に続いて香川県立工芸高等学校で鋳造、霊峰に平和の鐘が鳴り渡った。同年、鉱山主平田甚平氏の寄進により展望所に石室を建立、不動明王を勧請当堂の守護神とする。
 昭和三〇年代(一九五五)小池組念願の道路(現県道)が竹内徳森等の尽力により榎峠を起点に小池組中心部まで開通、住民、参詣者至便となる。昭和四〇年(一九六五)当山開創一二○年大法会厳修及び秦皇山開発事業が発足、昭和四四年NHK等のテレビ塔建設に関連し頂上まで道路延長され信仰と観光の霊山として開発がスタート。昭和五七年(一九八二)旧通夜堂老朽、開発事業の一環として秦皇山休養センターが新築落慶、昭和五九年老朽した本堂改築の議が興り総代金山 亨他信仰会、信者の助力により新築落慶法要を厳修し、霊山面目一新した。
 平成五年(一九九三)「平凡を倖せとして去年今年」
 森 白象師句碑建立。現在に至る。
       盛景寺奥ノ院  法務在番 盛景寺