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中山町誌

七、 真光寺

 山 寺 号  瑠璃光山真光寺
 所 在 地  中山町佐礼谷安別当
 宗   派  臨済宗妙心寺派
 創   建  不明
 開   山  応住禅儀禅師
 本   尊  薬師如来

 由  緒
 開創年代不詳、もと医王寺と号し、峰の薬師とも呼ばれて日本三薬師の一つとも伝えられる。本尊薬師如来(医王菩薩)は聖徳太子、また、豊聡王子が親刻され、脇仏一二神将は定朝法橋の作と伝えられる。
 天和三年(一六八三)道宣和尚代堂宇を改築し禅寺となる。その後、しばらく住職はなく、享保一三年(一七二八)誓明四世希盤和尚、その師応住禅儀禅師(大洲曹渓院住僧)を京都妙心寺より迎え当寺中興の祖となる。その頃、堂宇を修繕し、日光・月光の二菩薩を安座開眼す。仏具什物等も整備される。また、大檀那和田貞義・義次の代に田畑山林など多くの浄財を寄進、希盤和尚は石神道間の山林全体、弟子の即心堂司は岩畔の田畑、数多くの信徒は仏具什物を寄進、寺としての基盤を整えた。その後、火災のため焼失、享和元年(一八〇一)一一月堂宇を再建落慶するも明治一五年(一八八二)再び堂宇焼失した。
 翌一六年、誓明一五世温岳宗淳和尚檀信徒の協力を得て堂宇を再建当寺中興の祖となる。
 明治四二年(一九〇九)寺籍を京都妙心寺派に入れ、独立住職を置き周布郡吉田村清浄寺階嶺恵級和尚入寺して住職となる。
 (註、享保一三年誓明四世希盤和尚と明治四四年真光寺文級和尚が妙心寺に提出せる文書引用)
 真光寺は、妙心寺派に属するまでは誓明寺と同様に大洲曹渓院より寺憎が堂司として来住していたようである。
 当寺は峰の薬師として創建以来香煙が絶えず、薬師講には近郷の善男善女通夜堂に夜を徹して籠もり家内安穏、無病息災を祈願、特に八月一七日は「一七夜」の縁日で、講中はいうに及ばず近郷近在の信者数多く参詣、登山の人絶えず立錐の余地もない繁興、夜店が並び、深夜まで盆踊りの輪が回り続いたものである。
 戦後は、参詣の人も少なくなったが地元安別当の人達の信心の中心として護持念篤く、信者輪番による献茶献香、清掃奉仕が続けられている。
 一時期、本山妙心寺より寺院統廃合の議が興ったが、些几檀信徒各位の篤い護持の心は強く議は成らなかった。
 現今、峰の薬師一七夜には一〇〇余の提灯に明々と火を点じ、飾りつけにも工夫を凝らした催しで町おこしに努めている。
       無住職  法務在番 誓明寺