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中山町誌

六、 壮年の組織活動

 青年団・婦人会の結成・組織化に比べると、青年団を退いた成人男子は、ただ一個の家庭人・職業人で、社会の向上進歩の協力者としては弱い存在であり、団体の結成化や組織活動もあまり行われなかった。
 しかしながら、特殊な例として、意欲的な活動もみられる。明治四一年(一九〇八)中山村では、中山村・出渕村合併の翌年に壮年グループが両地区の有志を集めて、盛景寺門前に戒証山公園を開園している記録が残っている。
 昭和一一年(一九三六)八月に、佐礼谷村では、壮年有志の呼び掛けによって、「郷土の魂・社会の良心」の壮年団精神に基づき、佐礼谷村壮年団が結成され、地域振興を目指して旺盛な活動が展開された。

 佐礼谷村壮年団の活動
 (一) 研修活動 篠崎団長の信奉していた、二宮尊徳の報徳精神を中心として研修が行われ、会の理念と活動の伴侶として、「壮年団指針」を作成して、団員に配布した。
 (二) 小学校運動場拡張の提言と推進  昭和一三年
 (三) 村報の編集発行への協力
 (四) 村常会、部落常会の実施推進
 (五) 二宮尊徳翁銅像を小学校庭へ建立 昭和一五年
 (六) 壮年団中堅壮年協議会の開催   昭和一六年
 (七) 対外労力奉仕 昭和一八年夏、伊予郡北伊予村と、喜多郡満穂村の大洪水被害地の復旧作業に、団員約一五人による労力奉仕が行われた。

 翼賛壮年団へ移行
 時局は、戦争に向って急角度に傾斜して、昭和一五年に大政翼賛会愛媛県支部が発足し、壮年団はその一翼となって昭和一六年三月一一日に、佐礼谷村翼賛壮年団の結成式が行われた。こうして「郷土の魂、社会の良心」という地道な壮年団活動は、戦争遂行の翼賛体制に組み込まれた。
 以後の翼賛壮年団は、さらに婦人会・青少年団と結合して、翼賛青壮年団となったが、昭和二〇年六月、政府は、国民武勇戦闘隊の編成を発表すると同時に、大政翼賛会及び傘下の諸団体を解散させた(佐礼谷村壮年団については、森岡正雄の資料提供による)。