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中山町誌

三、 処女会から女子青年団へ

 女子青年の修養機関としての団体が結成され始めたのは、男子青年団体よりもずっと後からであった。
 本県では、明治四二年(一九〇九)に小田町(上浮穴郡)や余土村(現・松山市)に処女会が発足したとの記録が残っているが、県下に処女会が普及し始めたのは大正期に入ってからであろう。特に、大正四年(一九一五)に発せられた青年団に関する内務・文部両大臣による共同訓令を契機として、処女会組織の気運が次第に高まっていったといえる。(『愛媛県史』教育編より)
 大正一一年には、県下二九〇市町村のうち二四九市町村に処女会が結成され、郡市連合処女会も誕生した。
 本町においても大正一二年に佐礼谷村に処女会・青年団連合総会が開催された記録がある。
 大正一五年(一九二六)には、内務・文部両大臣の連名による「女子青年団体の振興並其指導ニ関スル件」という訓令が発布され、政府がはじめて女子青年層の全面的な掌握に乗り出した。具体的内容としては、忠孝の本義を体し婦徳の涵養に努めること、実生活に適切な智能を研磨し勤倹質実の風を興すこと、体育を重んじ健康の増進を期すること、情操を陶冶し趣味の向上を図ること、公共精神を養い社会の福祉に寄与することを要請したものであった。
 この訓令と同時に、社会局長官と文部次官からも通牒「女子青年団体施設要項」が発せられた。この時に、女子青年団体の名称も処女会を改めて女子青年団に統一されることとなった。
 昭和二年(一九二七)四月二九日に全国組織である大日本連合女子青年団が設立され、翌三年一二月一日に愛媛県連合女子青年団の発団式が挙行された。団則には、(1)女子青年団の調査研究 (2)講習会・講演会・展覧会の開催 (3)団報その他印刷物の発刊等の事業を行うことが明記された。
 「佐礼谷村報」の女子青年団便りによると、昭和二年一一月号では女子青年団の事業として編物講習会を三日連続で行い、女子青年団総会を一〇月一四日に挙行(午前中は家事経済に関する講話、午後は運動会の練習)しているが、出席数が少ないので参加人数の増加を訴えている。さらに一〇年後の一二年には、三島神社の上棟式に出席並びに手伝い、国防献金のためシャンプーを三個一箱にし一〇銭で販売するという記事が載っている。一三年五月号には「甦らんとする本村女子青年の教育」という小見出しで、女子青年の修養機関は青年学校女子部及び女子青年団であり、青年学校に女子部が設けられた大正一〇年以来の出席状況が、男子の青年に対して余りにも低いのを残念に思うと述べ、村民各位に重要性の認識を訴え協力を求めている。
 戦時体制が強化されていく中で、昭和一六年一月一六日に大日本青少年団が設立された。それに伴い、本県でも連合青年団・連合女子青年団を解消し、少年団を加えて青少年団として発足した。従ってこれ以後は青年団の内容と重複するので省略する。