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中山町誌

一、 戦前における社会教育の発足と歩み

 「社会教育」という言葉が正式名称として最初に使われたのは、大正一〇年(一九二一)の「文部省官制」の改正が行われた時からである。それまでは「通俗教育」と呼ばれていた。
 続いて同一三年一二月、文部省は「分課規定」を改正した。その時はじめて社会教育課が公的に成立した。その事務分掌は、①図書館及博物館 ②青少年団体及処女会 ③成人教育 ④特殊教育 ⑤民衆娯楽 ⑥通俗図書認定 ⑦その他の社会教育関係事項の七項目であった。社会教育はこれら七領域における事業を推進して行くことになった。
 「社会教育」「通俗教育」のいずれにしても、「学校教育」と一対の言葉であるが、その実体は学校教育に比べて明確でない。戦前は特にはっきりしなかった。
 社会教育制度が確立したのは戦後の新しい時代である。しかし、社会教育団体に属する青年組織は明治以前から存在していた。また婦人の団体も明治二〇年(一八八七)頃から組織化され始めるなど、歴史は古い。それらの結成及び変革の過程の中に初期の社会教育の姿がみられる。
 大正末期から昭和初期にかけて、戦争意識の高揚のために全国教化総動員体制が確立された。昭和五年の「愛媛県教化団体一覧」によると、教化団体として「各市町村の戸主会・主婦会(婦人会)・青年団・処女会・少年団・在郷軍人会・宗教団体等」が挙げられている。この時から社会教育が国民の教化総動員に力を貸すことになった。
 その後は徐々に戦時協力体制が押し進められ、昭和一六年(一九四一)以後、義務・強制により戦時一色に染められた。
 そして、昭和二〇年(一九四五)八月の終戦により社会教育すべての組織が崩壊・変容した。