データベース『えひめの記憶』
中山町誌
三、 永木幼稚園
幼稚園の開設
昭和五三年四月一一日、第一回入園式が挙行された。森平實衛が町長を、市田勝久が教育長を務めていた時、松山教育事務所より幼稚園教育の充実ということで設置希望の伺いがあった。東教育委員が真っ先に永木幼稚園設立の願いを出した。町当局もこれに積極的に賛同し、幼稚園が開設された(現在の駐車場の位置)。
その後、昭和五四年に新しく運動場が完成し、これまでの運動場は園庭として使うようになり、同五六年、現在の位置に新しく幼稚園を建設した。
それに合わせて、園庭に遊具が必要となり、プール・すべり台・ジャングルジム・サーキット施設が完成した。特にサーキット施設は時のPTA会長成田修二を中心に、幼小のPTA奉仕作業で仕上げたものであり、手作りの温もりが感じられるもので、今も子供たちの遊び場となっている。
しかし、プールについては小さいながらも水の確保が問題となり、建設が危ぶまれたが、地域の人々の熱意により完成の運びとなった。
その時の初代兼務園長篠崎武夫は次のように話している。
「幼稚園の先生は新採であり、いかに開園式・人園式をするかで苦労した。幸い町当局、特に市田教育長の指導や、地域の人々の支え、小学校の先生の応援で開園することができた。その後、新設幼稚園ということで、いろいろな問題や課題が山積みされ、峯本教頭には大変な無理をかけた」(永木小学校『開校一二〇周年記念誌』より)
小学校の先生が、幼稚園に協力する伝統は現在も続いており、職員会も共にする協力体制ができている。
交流保育
へき地小規模園においては、人と触れ合う機会が少なく、他園との交流の必要性から、平成元年に始められたものである。特に、野中幼稚園は規模的にも永木幼稚園と似通っており、計画的に交流保育を続けている。
このことは幼児の社会性を養う上にも、人との触れ合いの機会からも重要なものであり、現在は中山保育所との交流も行われている。
また、幼小関連教育が強調されている今日、永木小学校との合同授業も実施している。
三歳児教育
平成二年度以降は、幼児の数が一〇名を割るようになり、幼稚園の充実の面からも、三歳児教育の重要性の面からも、平成四年度に三歳児保育を開始した。