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中山町誌

二、 佐礼谷保育所

 佐礼谷保育所は、昭和三四年五月に、坪の内にある誓明寺を借りて春と秋の農繁期だけの季節託児所として出発した。
 その当時の様子を、子供の世話をした河野キワミ・松本スミヱ・金岡シズヱの三人は次のように語った。
河野 「季節託児所が始まったんは、昭和三五年頃じゃったかなあ。
     役場の島田福祉課長さんから電話があって始まったんじゃと思うよ」
松本 「農繁期の時だけ子供をお預りしよったんよ。たしか田植頃と稲刈り頃の二回だった。
     だから世話する人も、百姓をしていない私達が頼まれたんよ」
金岡 「今程遊び道具がなかったのに、子供らは元気によう遊びよったなあ」
河野 「給食いうても、今みたいな調子にいかなんだけど炊きごみごはんなんかようしよったわい」
松本 「自分たちで考えて、交替でようしよったなあ」
金岡 「野菜や魚はよう使いよったけど肉はあんまり使わなんだねえ」
松本 「おやつはオイモやカキモチなんか出しよった」
金岡 「みんな残さずによう食べてくれたなあ」
松本 「あの頃の日当は三〇〇円位たったように思うよ」

 東京オリンピックの開かれた年に、佐礼谷地区にぜひ保育所を設置してほしいという声が高まった。しかし、それには三〇名の人数確保が条件だった。移動公民館を開いて幼児教育の重要性を地区ごとに説明して回ったが、開設に結び付けるには苦労があった。当時の支館長下岡明春の話では、幼児教育の重要性についてはみんな理解しているが、保育所を開設することについては立地問題等もあって、なかなか前に進みにくかったという。やがて地元の人たちの熱意で、保育所設立が実現することになった。
 昭和三九年一〇月、佐礼谷へき地保育所として園児数四六名でスタート。小学校の二部屋を借りて保育を行う。冬の寒い中、学校の長い廊下を歩いてのトイレ通い、寒さのため途中でオシッコをもらす子供もあり、町にお願いして、昭和四三年に保育室の隣りに木造のトイレを設置した。
 昭和五二年、学校の校舎も老朽化したため、当時の後援会役員石河泓らが土地の確保に努め、石田日出男の気持ちよい土地提供により、園児の遊び場所に最高の現在地に素晴らしい園舎が建った。認可保育所となり「佐礼谷保育所」と改名し、園舎新築移転となる。
 昭和五三年、中山町内の幼稚園・保育所の保護者と職員の親睦を図る目的で、第一回交流バレーボール大会が開かれた。
 昭和五六年、町内三保育所の園児同士の交流の場として、第一回合同運動会が始まり、二回目から永木幼稚園も加わる。
 昭和五七年、親子の集いの後、年長組だけの体験学習としてお泊り会を、保育所で行う。
 昭和五八年、交通量が多くなり、門の前に横断歩道ができ、交通安全指導にも役立てている。
 同年、後援会長岡田博、副会長福岡義高ら役員の熱意により、部屋が拡張される。雨の日も伸び伸びと活動でき、保母・園児共に喜ぶ。
 昭和五九年後援会長上岡宗一ら役員の努力で創立二〇周年記念式典が行われ、貴重な「二〇周年記念誌」もできる。
 平成二年、ママさんクラブ(代表宮本洋子)が町内バレーボール大会に初出場する。
 平成三年、三世代交流活動を行う。老人に木ゴマ・羽根を作ってもらい、子供達はコマまわし・羽根つきを教えられ楽しみ、母親たちが老人幼児食を作り、三世代での温かい昼食会となる。
 同じく平成三年、屋根の修理をする。
 平成七年二月、創立三〇周年記念行事を行った。

佐礼谷保育所のあゆみ 1

佐礼谷保育所のあゆみ 1


佐礼谷保育所のあゆみ 2

佐礼谷保育所のあゆみ 2


佐礼谷保育所のあゆみ 3

佐礼谷保育所のあゆみ 3