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中山町誌

八、 本土空襲

 昭和一八年末、県からの指示を受けて各学校では、防空計画を作成した。それらの計画では、警戒警報発令と同時に防空活動態勢に入る。空襲警報発令があれば授業を中止、五分以内で帰宅できる者は帰宅させ、特設された防護団は所定の任務につき、他の者はあらかじめ定められた裏山、提防、河川などへ退避させることになっていた。

 松山市の空襲 (『愛媛県教育史』第三巻より)
 「昭和二〇年七月二六日松山市は、米軍の空襲を受け、鉄筋コンクリートの建物の一部を残して市全体が焼きつくされた。昭和二〇年七月二六日午後一一時二三分に出された警戒警報は三分後に空襲警報に変わり、ほとんど同時に米機約六〇機が松山市西方の上空に達していた。第一弾を市内新町に投下し、編隊は右に旋回して城山を中心にその周辺から市の中心部へ二時間半にわたって焼夷弾(直径約一〇センチ、長さ七、八〇センチの六角形)を投下した。消火に当たる人々、逃げまどう群集で、さながら地獄絵そのものであった。
 県知事土肥米之は、愛媛新聞号外で『百二十万県民に告ぐ、被害を僅少にとどめ重要施設は殆んど全きを得たり、県民各位はいやしくも流言蜚語に惑わされることなく不とう不屈、あくまでも冷静沈着、ますます必勝の信念を昂揚して職域に邁進し、以て皇土の防衛、聖戦の完遂に遺漏なきを期すべし』と告諭した。しかし、市民は焼け落ちたわが家の前に、しばし茫然と立ちつくすのみであった。
 この空襲によって一四、五〇〇人が被害を受け、死者二五一名、負傷者は数え切れなかった。
 学校は、国民学校九校、その他済美、東雲、松山工業、女子商業学校をはじめとして一五校が焼けた。
 同様に、今治市、宇和島市など市街地は殆んど空襲に遭い、大きな被害を受けた」
 戦時下では、空腹をかかえ、節約と勤労を強いられ、敵機の来襲に怯えながら、正に明日の命と衣・食・住が保障されない異常な状況の中で教育が進められた。
 広島・長崎に原子爆弾が投下され、八月一五日正午、「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲に忠良ナル爾臣民に告グ…」の玉音放送が流され、学徒・学童に大きな犠牲を強いた長い戦争はここに終わりを告げた。
 終戦当時、中山国民学校に在職していた元校長二宮卓郎は、八月一五日の模様を「中山小学校百年のあゆみ」に次のように記している。
 「(中略)天皇の詔りを聞いて、急いで学校にかけつけた。職員室には多勢の職員が集まっていた。校長が大きな文字で黒板に終戦と書いた。その文字が今でも瞼に浮かぶ。やきつけられたように。これで凡が終わったのだ。長かった。実に長い間がんばったものだ。
 なぜ敗戦と書かぬのか。実にみじめな敗戦じゃないのか。涙も出なかった。声も出なかった。教室で最後の授業をした。地理の時間だった。六年生の印度の気節風の授業だった。これが戦前の最後の授業だった。あすからどうしたらよいのか…(後略)」