データベース『えひめの記憶』
中山町誌
七、 学童疎開
昭和一九年の中頃から、米機の本土空襲が激化し、「学童疎開促進要綱」が閣議で決定された。これによると、国民学校初等科三年以上六年までの児童は、親戚縁故先などに疎開できない者も、保護者の申し出によって疎開を実施することになっていた。疎開先の宿舎は、旅館・集会所・寺院・教会等が当てられた。
愛媛県には、大阪市此花区内の国民学校児童が疎開することになった。伊予郡市での受け入れは次表の通りである。
一〇歳前後の子供が、親元を離れて暮すことの心の苦痛は大きく、夕闇迫る頃、走り去る上り列車をじっと見つめる子、夜ともなれば親を慕って泣き出す子も少なくなかったようである。これらの学童の中には、疎開先で空襲に遭い、宿舎を焼かれ、身一つで避難しながら数ケ月の耐乏生活を忍ばなければならない子供もいた。