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中山町誌

二、 学徒動員

 昭和一九年になると戦局は決定的段階となり、政府は断固たる決意のもと「決戦非常措置要綱」を発表し、学徒動員を実施した。
 国民学校高等科以上の生徒は、地域や校種に応じて、農作業への協力、軍関係の工場での作業、食糧増産、国防建設等に動員された。国民学校初等科を除いて、昭和二〇年四月から昭和二一年三月末まで、授業は原則として停止することになった。

 学徒動員に出動した生徒の体験談
 伊予農業学校に在学していた西岡芳教(現中山町収入役)は、当時の体験を次のように述懐している。
 「ぼくらは農業科の生徒じゃったから、軍需工場へは行かなんだんよ。自分らの出身地の農業会(農業協同組合の前身)へそれぞれ配属されてな、今でいう農業改良普及員みたいな仕事の手伝いをさされたなあ。
 さつまいもの増産に力を入れとった頃でな、農家へ行っていもの温床(発芽を早めるため、わらで一定の大きさの囲いを作り、中に草や落葉、わらなどを分厚く敷き込んで発酵させ、その地熱を利用する苗床)作りやいも苗の植え方なんかを技術員さんが指導されるんで、一緒について回ったわい。とびとびじゃったけど、ニ~三ケ月は行ったかなあ。
 風水害の復旧に横河原へも行ったし、出征軍人の家へ稲刈り、麦刈りなんかの勤労奉仕に行ったが、卒業した年の八月に終戦で、ぼくらは勉強らしいことはできなんだんよ。」
 当時城北高等女学校(現松山北高校の前身)二年生に在学していた西村良子(中山町泉町一在住)は、学徒動員の体験を次のように語った。
 「わたしたち二年生約二〇〇名は、昭和二〇年(一九四五)二月から八月までの約半年間今治市の工場で働いた。かつて縫製工場だったものが軍需工場に切り替えられたらしい所で、ドリルや旋盤を使って、鉄板に穴をあけたり削ったりした。
 出発に先だって、自分たちの使う布団を講堂で皆で縫った。材料は学校の方で用意されていた。
 食事は、少量の米にさつまいもを混ぜたもので、小豆ご飯に見えたりして、後でがっかりしたものだ。おいしくはなかったが、誰も残す者はなかった。肉や魚を食べた記憶はない。
 また、非常食として、お米を一人当たり一合(約〇・一八リットル)配られたが、近くの農家で炒ってもらってすぐ食べてしまった。とてもおいしかった。
 うれしかったのは、学友の母親の慰問だった。慰問のおやつを分け合って食べるのが唯一の楽しみだった。
 当時、空襲警報が頻繁に出された。敵機の攻撃予定地は前もって空からビラが撒かれて知らされていた。それで、私たちは、夜の一〇時まで勤務した後今治市の近見小学校へ避難した。暗い夜道を歩いて小学校へ着き、やっと眠りについたころ空爆が始まった。素足で外へ飛び出した時、すでに市内は燃え上がっていた。
 暗がりの国道沿いを、必死の思いで波止浜へ逃げているところを攻撃された。この時二四名の学友が死亡し、負傷者も数多く出た。倒れた人たちのけがは、目を覆いたくなるほどすさまじかった。
 戦後、松山市の護国神社の境内には、彼女たちの慰霊碑が建立された。うら若き十五歳の青春を御国のために捧げた二四の魂は、今ここに静かに眠っている。私たち学友は、毎年の命日にここに集ってお参りしている。」

 勤労動員の思い出
 戦時中師範学校に在学していた上岡哲男(中山町豊岡二在住)談。
 「昭和一八年の大洪水のため、県下の河川は各所で決壊し、その修復のために動員された。私どもは、夏休みを一八日に短縮して頑張った。
 最初は、浮穴村(現松山市)ヘ一学年(一六〇名)単位で出かけた。水がひいた田は田植直後のことでもあり、苗の流失や浮き苗の場所が多くその補充などに従事した。
 その後、八幡浜へも行った。途中大洲の畠には土砂が三〇センチ位積り、町の家々には軒まで水に浸った跡が残っていた。そこでの仕事は土砂運びだった。
 春休みになってから、弘形村(現上浮穴郡美川村)ヘ、木材の搬出に行った。山道を引きずり下したり、小さな材木はかついで下した。美川での食事は地元の厚意で良かったと思う。二〇歳頃の学生だったので、夕食後は国の将来についてに真剣に語り合ったりしたものだ。五〇年を経た今、すべてが懐しい思い出となっている。」
 女子挺身隊として出動した松本文子(中山町福住在住)上岡和子(中山町豊岡二在住)談。
 「昭和一八年(一九四三)一一月、女子挺身隊として出動するようにとの通知が役場から届いた。行き先は伊予郡松前町の人絹工場(現東レ株式会社)で、期間は約一か月ということだった。松本文子(旧姓山岡)を隊長として、中山町から二五名の若い女性がトラックで松前町へ出動した。
 仕事は糸洗いと糸くず集めの二種で、二班に別れて働いた。食事は盛り切り一杯の麦ご飯で、芋三切れの時もあった。松本隊長の家からお餅を送って頂き、皆で大喜びして戴いた。
 中山出身者の出席率は一〇〇パーセントで、よく働くので上司からお褒めの言葉を頂いたのを覚えている。
 お正月が来て、私たちの任務が終わった後も、中山町の多くの男性が戦場へ出向き、労働力不足を補うため、若い女性がいろいろな職場へ進出するようになった。」

高等女学校の生徒も軍需工場で働いた

高等女学校の生徒も軍需工場で働いた