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中山町誌

一、 市町村義務教育費国庫負担法

 明治四〇年義務教育が六年制となって、市町村では義務教育費の負担が財政を圧迫した。県内町村全体の教育費は、町村費総額の三四~四〇%を占めていた。松山市では、明治三四年に廃止された授業料を再び徴収したいという論議がなされた程であった。
 大正三年(一九一四)八月から起きた第一次世界大戦による好景気もやがて物価高を招き、米騒動が各地で発生した。俸給生活者の給与は物価の値上がりに伴わないため、教員の生活はきわめて困難となった。教員の給与を負担している市町村の財政事情も悪く、政府は教員の給与の一部を国が支弁する法を制定した。
 このような状況にあって、県下では職を他に転ずる者や学習塾を開いて生活費を稼ぐ教員も増加した。大正九年三月における県下の代用教員は全体の二四・四%にも達した。このため大幅な給与改訂が行われた。ちょうどその頃物価は下がり始め、米価も四割下落した。