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中山町誌

三、 教育勅語

 明治二〇年前後、近代学校制度は次第に整えられてきたが、国民教育の根本精神を教育の中にどう折り込むかについて、統一された見解がなかった。このことが修身科の教育を混乱させることとなり、明治二三年(一八九〇)二月の地方長官会議で徳育の在り方が問題となった。
 この件は閣議でも論議され、ついに明治天皇から文部大臣に対して、徳育の基礎となる「箴言」を編纂するよう命令が下った。この結果、徳育の大本を立てる方策が急速に進められ、明治二三年一〇月三〇日に明治天皇は総理大臣山県有朋と文部大臣芳川顕正とを宮中に召して次のような「教育に関する勅語」を発布した。以来第二次世界大戦が終結するまで、これが国民教育および国民道徳の基本となった。
 勅語は天長節・紀元節・新年の三大節祝賀式等で、校長が職員や生徒に謹んで拝聴させた。

教育に関する勅語

教育に関する勅語