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中山町誌

第四節 鉄道 -内山線開通ー

 愛媛の鉄道建設の歩み
 明治二五年(一八九二)六月二一日、鉄道敷設法が公布され、全国的に国有鉄道期成同盟会を結成する気運が高まり、各地に次々と産声をあげて誕生した。鉄道誘致運動が現実的なものとして結実し始めたのである。この全国的動きに合わせ、四国循環鉄道期成同盟会も発足、同四三年には県の期成同盟会が組織され、松山市を中心とし、各郡市に支部が置かれて運動が進められた。翌四四年には、多度津~松山間の鉄道敷設建議案が国会で可決、着工された。
 これに先立ち、全国的には明治一九年頃から民間投資による鉄道建設ブームがわき起っていた。この時期、愛媛県では伊予鉄道が全国に先がけ、同二一年に松山―三津間に軽便鉄道を敷設したほか、四三年、四四年と続いて軽便鉄道法、同補助法の施行を受け、宇和島鉄道・愛媛鉄道による南予を中心とした鉄道建設が積極的に進められていった。
 しかしながら、東予地方においては、この時期比較的海上交通が発達していたために輸送力増強に対する要求が低く、鉄道に対する取り組みについては、南予地方と対照的であった。
 県下に私鉄の営業が相次ぎ、しかもそれらが好成績を収める中で、県内への国有鉄道の敷設は大幅に遅れていた。国鉄の敷設が進まなかった理由として、まず第一に、県内の地形が複雑で、山地が約四分の三を占めており、敷設工事に多大の困難が伴うこと。第二に、全国でも四番目に長い海岸線を持つ沿岸地方では、明治時代から比較的海運が発達し、海上輸送が早くから利用されていたこと。第三に、明治から大正期の国家体制の中で、四国は国土防衛の見地からみて、さほど重要地域と考えられていなかったという理由が指摘されている。
 ともあれ明治四四年(一九一一)、鉄道院多度津建設事務所によって多度津以西への工事が始められ、大正五年(一九一六)には、川之江まで開業。川之江―西条間は、建設上西条線と称して着工され、大正一〇年(一九二一)に西条まで開通した。ついで西条―松山間が、岡山建設事務所によって松山線として進められ、昭和二年に至ってようやく県都松山市まで開業が実現した。当時県庁所在都市で国鉄の通じていなかったのは、沖縄を除けば松山市のみであったといわれる。この北四国海岸線は従来讃予線と称されていたが、昭和五年に予讃線と改称された。
 以後も予讃線は西に延長されていき、昭和一〇年、愛媛鉄道を買収改良した部分も加えて大洲に到達することになるが、この間において郡中以西の「海回り線」と中山町・内子町等を通過地とする「山回り線」の熾烈な誘致運動が展開されることとなる。

 国鉄内山線建設計画と誘致運動
 明治三三年(一九〇〇)、宇和島の山村豊次郎ら六人が視察し立案した愛媛の郡中以南の鉄道路線は、郡中から犬寄峠を貫き、中山・内子を経て大洲に達するものであったが、鉄道院は、犬寄峠越えは難工事であるからと海岸線一本にしぼり、内山線は比較線にも挙げられなかった。
 当時海岸線は一本しか路線計画がなかったのに対し、山間線は次の三線がそれぞれ誘致運動を行っていた。
 (1) 松山―森松―田渡―内子―大洲線
 (2) 松山―郡中―中山―内子―大洲線
 (3) 松山―郡中―上灘―満穂―内子―大洲線
 内山線の原型ともいえるルートの青写真は、明治後期にまで遡るといわれる。愛媛鉄道の前身である西予電軌道が、明治四三年に軌道の敷設を請願したのが初めとされる。請願路線は、伊予鉄道の郡中駅を起点として、中山―立川―内子―大洲―千丈を経て八幡浜に至る五九・六キロメートルと、八幡浜―喜須来間の約一・六キロメートルであった。
 しかし、道路に敷設する電気軌道は短距離用のもので、このような長距離路線には不適当と鉄道院から判断され、軽便鉄道への変更を指示された。そこで同四四年六月、西予軽便鉄道と改称、同鉄道の免許状を得た後、大正元年に愛媛鉄道と改称、同五年五月には、当初計画の予定ルートを大きく変更し、郡中以南については海岸回りで、長浜を経由して八幡浜に至るものとした。工事の着手については、まず、肱川沿いに大洲―長浜間一四・六キロメートルから始め、同七年二月に開通、さらに支線として若宮―内子間九・六キロメートルが同九年五月に開業した。
 このルート変更決定は、内山線建設を待望する地区住民にとって厳しい選択となり、鉄道無縁の先行きを暗示するかのようであった。一方、国鉄については松山以南の予定線は、郡中―長浜―大洲―吉田―宇和島と海岸回りとされており、内山線は比較線の候補にも挙がっていなかった。
 この間、予讃線は西条に向け工事中で、各地では、「我田引鉄」とまで呼ばれた激烈な誘致運動が操り広げられていた。中山・内子・五十崎の三町有志等も、内山線誘致運動に立ち上り、大正九年一二月には、国鉄測量班を呼び寄せた他、鉄道院の新敷設法案が可決成立した一一年五月には、大村建設局長も同線計画地域を訪問視察した。しかしながら、犬寄峠において予想される難工事と、工事費面で海岸回り線より優位に立つことは難しい状況であった。
 内山線がこのような状況下にある時、北宇和郡会においては、松山、伊予郡(犬寄峠を含む)、東・南予の県境に及ぶ全県にわたり、国鉄敷設路線の実測踏査(明治三三年実施)の調査結果を各市町村に配って、鉄道院に対する請願書作りを呼びかけていた。
 海岸回り線においても、長浜町が中心となって、喜多郡内山地区が鉄道誘致運動を始めると同時に、たとえ予定線になっていても安心はできないと、海岸線期成同盟会を結成して、中央政界と国鉄当局に対し精力的な陳情を繰り返し、海回り線・山回り線双方の国鉄誘致合戦は熾烈な先陣争いを演じることとなった。
 国鉄海岸線期成同盟会では、海回り線の優位性をその陳情書の中で次のように述べている。
 「国有鉄道敷設計画中、愛媛県松山市ヨリ同県西宇和郡八幡浜町二至ル松山八幡浜線ハ、郡中町ヨリ上灘町・長浜町ヲ経テ肱川ヲ遡流シ、大洲町二至ル線ヲ予定線トシ、已二松山郡中間工事御着手計画ノ由聞及ビ居リ候処、近時コレガ比較線トシテ郡中町ヨリ伊予郡中山町・喜多郡内子町ヲ経テ大洲町二出ヅルノ路線採用方陳情スルモノアルヤニ聞及ビ候
 右中山町及内子町ヲ経由スルモノハ犬寄峠ノ嶮アリ、山嶽重畳、工事頗ル難事ニシテ、若シ万一開通スルモ将来鉄道経済上不利不便ナルモノト存候、予定線タル上灘町及長浜町ヲ経テ大洲町二達スルモノハ、海岸並二河川ヲ経由シエ事軽易ニシテ距離亦近ク、人口ノ稠密物資ノ集散等ノ遙二優越セルモノト相信ジ候
 尚亦長浜町ハ、古来ヨリ肱川流域ノ旅客物資ノ集散地ニシテ、近時築港完成シ海陸連絡上必須ノ地点タルノミナラズ、県道長浜日吉線ノ開通ナリ、今ヤ北宇和郡三間地方并二遠ク高知県梼原地方ノ物資ノ呑吐ハ、皆長浜町ヲ経由スベキモノニシテ、将来ノ長浜港ハ実二南四国ノ交通ノ要衝タルハ論ヲ待タザル所二之有候条、精密御調査ノ上何卒予定線タル郡中町ヨリ上灘町・長浜町ヲ経テ大洲町二達スル様、線路御決定ノ上速成相成リ度、関係町村協議ノ上、別紙御参考ノ資料トシテ旅客表及貨物表ヲ添付シ、此段陳情候也
 昭和二年二月
            国有鉄道海岸線期成同盟会」
                 (『長浜町誌』)

 昭和二年、松山―郡中間の工事着手によって内山線建設運動は再燃し、その運動推進の中核を担ったのが森井苫三郎である。森井苫三郎は、昭和四年三月中山町議会議員に就任、国鉄誘致委員に選任されるや直ちに行動を開始した。それは若い時からの「中山町の文化の進展、産業の振興は、国鉄内山線の開通なくては望めない」という郷土愛に燃える信念に基づくものであった。
 森井は、早速私財を投じて、松山市の松岡工務所に犬寄峠の再測量を依頼した。綿密な測量の結果、国鉄当局の測量と大きな違いが発見された。それは路線勾配を五〇ないし六〇分の一にすることができ、トンネルも一マイル(約一六一〇メートル)以内に収めることが可能であるという結果が出たことであった。それに勢いづいた森井苫三郎は、測量結果をまとめ、本県選出の代議士と内山地方の関係町村を歴訪して賛同を求めるとともに、上京して強力な陳情を実施したが、採択にまでは至らなかった。昭和五年二月二七日、郡中まで開通した国鉄は、海回り線として同七年一二月には上灘、同一〇年一〇月には長浜まで開通し、森井苫三郎並びに中山町民の落胆は大きいものがあった。
 しかしながら、森井苫三郎の鉄道建設にかける夢と情熱は衰えをみせず、国鉄内山線は必ず開通させてみせるという信念を持っていた。
 この信念の礎について、当時国鉄誘致委員として運動を共にし、後に中山町長に就任した宮田眞實は次のように語っている。
「当時鉄道省建設局技師長、後に鉄道省事務次官に就任した喜安健次郎が、現在の海岸線は、地盤沈下甚しく、将来不利益な路線であると主張していたことだと思う。氏はこの発言を忘れず、将来内山線は建設される見込みがあると堂々申されており、このことが森井氏が国鉄誘致運動を続けることとなった基であろう」(昭和三六年中山町報一二号)

 戦後の国鉄内山線建設運動
 戦後昭和二三年、国民が飢えと大きい時代変化の中で生きるために懸命であった頃、森井苫三郎は、荒廃した古里の山を眺めては、中山町の今後の進展は、国鉄の誘致以外に道はないと再び国鉄誘致運動への情熱に駆り立てられた。既に古稀を迎えようとする森井は、自分が若い頃から大きい夢として描いてきた国鉄の誘致、この宿願達成に残された余生のすべてを捧げようと決断した。
 決断すると即行動を起し、これに全力投入する行動派の森井は、まず内山線沿線一四町村内の有識者と町村当局に対し、鉄道建設の必要性を説き、理解と協力を取り付けることから始め、順次運動の輪を拡げていった。当時の運動展開の中で、町内では、山村辰治郎・上野寅吉という同志ともいえる協力者を得ることができた。
 特に同二五年秋頃、衆議院議員で運輸政務次官に就任した関谷勝利代議士との出会いが、運動推進の大きな力となった。関谷代議士と森井の出会いについて、上岡貞義は次のように語っている。
「あれは昭和二五年秋頃だったと思う。運輸政務次官就任後、初の後援会出席のため来町した関谷代議士は、大興寺を訪れた。そこには、森井苫三郎・山村辰治郎・上野寅吉の三人が待ち受けており、後援会後、後援会幹部の松岡貞治・宮岡唯市・中丸マキノ・上岡貞義を交じえ、内山線建設促進への熱心な陳情が行われ、話は深夜に及んだ」
 又、関谷勝利代議士はその著作「老の囈」の中で、内山線との関わりについて次のように記している。
「その頃、内山線実現のため私財を投げ打って奔走している森井苫三郎という方がありました。内山線が海岸線より有利であることを力説したものの、国鉄当局は、技術上不可能と取り入れなかったので、土木技術者を自費で雇って実測して、その可能性があることを証明したが、結局は却下せられたとのことです。
 内山線を実現したい一念の森井苫三郎さんは、その後も引続き、各種会合の都度、内山線の重要性を力説するので『鉄道気狂爺さん』と呼ばれておりましたという話を大興寺の中丸マキノ女史という社会奉仕活動家から聞かされており、私は感動しました。
 たまたま、当時内子線廃止計画が発表せられ、地元の町長等が存続の陳情を続けておった事も重なり、内山線実現により問題解決する以外方法はないと考え、早速鉄道建設審議会へ私から調査を申し入れました」
 関谷代議士の理解と協力の約束を得た森井・山村・上野の三人は、沿線町村当局へ内山線建設運動推進体制確立の要望を熱心に続け、昭和二八年、ようやく第一回の沿線町村長連署による陳情書提出まで漕ぎつけることができた。

   日本国有鉄道内山線敷設について陳情書
  陳情の要旨
 愛媛県伊予郡郡中町から同県喜多郡内子町間(主要経過地伊予郡南山崎村・中山町・喜多郡立川村・五城村)に日本国有鉄道内山線敷設して頂くよう陳情します。
 陳情の理由
一、内山線は、昭和初年伊予郡郡中町から喜多郡大洲間に鉄道敷設計画が発表されて以来の関係町村民の悲願であります。
 当時においては、現在開通している海岸線と今回請願いたします内山線の二案がありましたので、内山線を主張した私達関係町村は、海岸線の地盤の軟弱なこと、距離の長いこと、利用価値の少ないことを挙げ内山線敷設を嘆願致しましたが、遂に実現に至らなかったものであります。

二、内山線は、伊予郡郡中町から喜多郡内子町間へ国道松山宇和島線に沿い敷設せんとするもので、現在の路程は約三〇キロメートルであります。
 この沿線には、肱川の支流小田川・中山川流域に沿い内山盆地・小田盆地、及び中山盆地を中心として一四ケ町村が位置し、別表の如く面積三〇四・一一平方キロメートル、六九、二八八人、戸数一三、六〇三戸を有し、地味極めて肥沃にして莫大な農産物を産し、連山ことごとくうっそうとした県下有数の林産資源地帯であります。
 この地域から産出する諸物資は、数十の県・町村道を通じて搬出され、沿線至る所農林産物資を初め諸物資の集積地となっており、馬車の交通極めてひん繁でありますが、自動車による輸送は限度がありますので、ぼう大なる林産物資源を初め良質の地下資源を大部分未開発のまま放置され、従って住民の生活は向上せず、文化にも恵まれない現状であります。
 この資源を開発し、住民の生活を安定し、文化の向上を図り、もって祖国の再建と繁栄に資すると共に、併せて二〇数年来の地方住民の悲願を成就しむるためにも、内山線の敷設は急務中の急を要する事項であります。

三、他方海岸線は、山岳が海に迫り、地区狭少で産物も至って乏しいのは、今更申すまでもございませんが、その現状を見ますとき、地盤の軟弱なるために年々頻発する路側の崩潰、南海大地震以後特にけん著となった地盤沈下、河川の荒廃により年中行事化した水害等により線路の損傷相次ぎ、これが復旧並びに補強工事に労費するぼう大な経費、加えて交通の杜絶を来たす等國家的見地からして実に大なる損失であります。
 内山線は、これに引替え、地盤が非常に強固で本県中最も災害の少ない地帯であります。さらに距離においても海岸線に比較して非常に短縮されますので、四国循環鉄道の一環としても最適の路線であると確信します。
 右のような事情でありますので、国におかれましては、経費御多端の折柄誠に恐縮には存じますが、何卒地方の実情御洞察の上特別の御詮議をもって日本国有鉄道内山線の敷設につき格別の御配慮を賜りますようここに関係者連署をもって陳情します。
   昭和二八年六月
       愛媛県伊予郡中山町長  亀本 好恵
          〃   郡中町長     城戸 豊吉
          〃   北山崎村長   藤本 政夫
          〃   南山崎村長   大塚  章
          〃   佐礼谷村長   宮田 喜市
          〃   広田村長     三好  清
       愛媛県喜多郡内子町長   高畑 幹生
          〃   立川村長     宮岡 正義
          〃   五城村長      河内 尚寛
          〃   満穂村長      岡本 憲祐
          〃   大瀬村長     城戸  好
          〃   天神村長      高橋 鉄磨
          〃   御祓村長      原 武一郎
          〃   五十崎町長   河内 保歳

 昭和二九年三月一〇日、森井苫三郎等の運動と、関谷代議士の政治力ともいわれるが、日本国有鉄道大阪工事事務所調査係長嘉戸将行他一名が、内山線調査のため来町する等国鉄当局の動きはあったが、建設実現は困難とする態度であったとされている。
 同三一年九月三日、伊予市・中山町・内子町・五十崎町では、中央陳情を実施した。この際、森井苫三郎は病弱のため同行上京することができず、陳情団の一員であった新井伊予市議に、自分の水田を売却してつくった資金一五万円を渡し、陳情成功に尽力を依頼したということである。この際の陳情は、国鉄側は受入れてくれたが、運輸省の壁は厚く、面会することも許されなかった。
 晩年の森井は、内山線建設への使命感から生活のすべてを国鉄建設運動に捧げ、その資産は次々と運動費に姿を変えて消費されて行った。しかしながら、燃えるような情熱は衰えをみせず、歩行困難となっても、二男にリアカーを引かせ、沿線市町村当局や有志を訪ね運動を続けた。しかし、ついに病気に倒れ、入院生活を余儀なくされるようになった。それでも闘病生活の日々を、陳情書の草稿に筆を入れてひたすら国鉄開通を祈念し続けたという。
 このようにして、その生涯のすべてを国鉄内山線建設運動に捧げた森井は、後に続く者を信じつつ同三三年五月二七日逝去した。享年七八歳であった。
 同年一〇月六日、中山町は宮岡正實議長ほか議員全員による陳情団を上京させた。運輸省及び国鉄当局は、陳情は受けるが、これの実現についてはさらに調査の上、慎重に検討するというものであった。
 翌三四年二月、中山町長に宮田眞實が就任した。宮田町長は、沿線市町村を訪問し、国鉄建設を実現するためには、沿線市町が連携を強め、組織的運動を展開する必要性を強調し、ここに沿線の伊予市・中山町・内子町・五十崎町・大洲市で構成する「国鉄内山線建設促進期成同盟会」が発足することとなった。初代会長には中山町長宮田眞實が就任した。
 なお、この会は国鉄内山線開業の昭和六一年三月まで存続し、歴代会長は中山町長が就任し、国鉄建設促進運動の中核組織として活動した。

 国鉄内山線建設工事
 昭和三六年六月、国会は、鉄道敷設法の一部を改正する法律を可決、その別表において内山線は予定線に編入せられ、同月一六日この法律が公布された。森井苫三郎が国鉄建設運動を始めてから、実に三五年目のことであった。さらに同三七年三月には、調査線に昇格、三九年六月二五日、鉄道建設審議会は、工事線編入を適当とする旨建議した。国鉄建設史上異例といわれるスピードで昭和四一年には着工線に昇格、いよいよ沿線市町村民待望の起工式を挙行することになった。

 国鉄内山線着工
 昭和四一年一一月二七日、沿線住民待望の起工式は、快晴のもと中山町中央公民館・中山小学校庭を主会場として盛大に挙行された。
 同年一一月二八日の愛媛新聞は、その模様について一面トップで次のように報じている。
「予讃線向井原(伊予市)を起点に、中山町を経て内子駅に至る国鉄新線内山線の起工式は、二七日午前一一時から開かれた。中山小学校庭での神事には、工事担当の日本鉄道建設公団篠原副総裁・杉同公団大阪支社長・参議院運輸委員会江藤委員長をはじめ、運輸省黑住鉄道監督局鉄道部長、国鉄から長浜建設局長・向井四国支社長、県選出代議士のほか、地元から久松県知事・県議団・関係市町村長・同議会議長ら約三〇人が出席、篠原副総裁・久松知事・宮田内山線建設促進期成同盟会長がクワ入れ、続いて出席者が次々に玉串を奉てんして工事の無事を祈った。地元小・中学生一、二〇〇人は一行を迎え万才を三唱、色とりどりの風せんを空に放って起工式を喜びあった。(中略)内山線は、単線丙線規格で、線路延長二四キロメートル、橋りょう一六ケ所、トンネル一三ケ所、国道とはニケ所、県道四ケ所で立体交差で、全体としてスピードアップをねらった設計。路線は、向井原駅から分岐、国道五六号線沿いに犬寄峠を四国最長の五、九九〇メートルのトンネルで南下、中山町を経て内子町内子駅で結び総工事費五一億円で昭和四八年に開通予定」としている。
 同四二年二月、日本鉄道建設公団伊予鉄道建設所が伊予市大平に設置され、工事は犬寄峠伊予市側から着工された。このトンネル工事の進行と共に、トンネル上部に位置する、犬寄・赤海・坪井等の集落においては、用水がトンネル内へ流失し用水枯渇を招くという問題も発生した。
 同四五年一二月には、中山町側からも掘削を進め、四六年一〇月二七日、四国最長(六、○一二メートル)の犬寄隧道は、着工以来三年一〇ケ月、総工費一五億円を投じ貫通した。
 貫通式当日は、午前一〇時三〇分、石岡鉄道建設公団副総裁が中山町側からトンネルに入り、発破のスイッチを押すと爆発音とともに見事貫通、伊予市側で待ち受ける玉本伊予市長と西岡中山町長は固い握手を交し、貫通を喜びあった。
 犬寄峠隧道貫通以来、用地の買収も順調に進められ、同四七年四月、中山隧道が、五〇年三月添賀隧道、同年九月上平村隧道が貫通し、当初予定よりやや遅れたが工事推進は順調に推移した。
 なお中山町では、トンネル工事による出土を利用して、豊岡地区に、農村工業導入団地を造成した。
 昭和五〇年一二月二六日、日本鉄道建設公団大阪支社は内山線工事の進捗状況を発表すると共に、開業目標は五二年と定め努力していると発表した。
 ところが、ここに大きな障害が発生した。それは四〇年代から問題視されることとなった国鉄赤字対策である。同五四年一月二四日、運輸政策審議会の国鉄地方交通線問題小委員会が、ローカル線廃止の答申を行ったことから全国的に大問題となった。運輸省は、この答申を受け、同年五月地方建設線についても大ナタを振るう方針を決定したのである。
 内山線建設促進期成同盟会では、森平会長を中心に一致団結して強力な陳情を展開、全国的には多くの路線が工事中断の措置となる中で、AB線中、最重要路線と決定され同五五年から駅設備工事が進められることになった。ところが五六年三月、日本国有鉄道経営再建特別措置法が施行され、鉄道の建設工事はますます厳しい環境となり、内山線は果して開業されるのか、町民の宿願は、いつの日達成されることになるのか前途に暗雲が漂う状態はなお続くことになった。
 このときも、内山線建設期成同盟会は、関谷勝嗣代議士はじめ地元選出代議士を先頭に内山線建設工事の継続を強力に陳情、一方県当局においても、毎年内山線建設を愛媛県の重要施策として取り上げていた。特に同五八年には、白石知事が特別に上京し、建設工事促進と早期開業を強力に陳情する等の助力を得て、幾多の危機を乗り越えて工事を継続することができた。最後には数多い全国AB線のうち内山線だけが、日本国有鉄道最後の新線として建設される方針となった。
 昭和六〇年五月八日、早期開業を陳情した内山線建設期成同盟会に対し、国鉄の岡田常務理事は、「明春四月開業したい」と初めて六一年四月開業の方針を示した。
 同六〇年一〇月一八日、国鉄新線内山線は全長二三・四キロメートルのレールの締結式を迎え、午前一一時伊予中山駅でレール締結の行事が、日本鉄道建設公団永井副総裁ほか関係者約八〇人が出席して実施された。工事着工以来一九年、内山線建設計画が持ち上ってから半世紀以上を経過して、やっと伊予市から中山町を経て内子町までの鉄道路線が結ばれたのである。

 国鉄内山線開業
 レール締結式を終えた国鉄内山線は、予讃本線からの分岐工事や、列車運転のための電力・信号設備・電話・無線等の通信設備工事を順次進め、各種試験や、試運転を繰り返しつつ最終整備を行って開業に備えた。
 開業は昭和六一年三月三日(月曜日)である。
 愛媛新聞は、開業前日の三月二日特集号を組み次のように報じている。
「二一世紀に向けて走れ! 内山線あす開業
 「鉄道がほしい」半世紀を超える住民の願いが叶って、あす三日、伊予市向井原と喜多郡内子町の二三・五キロを結ぶ予讃本線新線(内山線)が開業する。新線区間には「伊予大平」「伊予中山」「伊予立川」の三無人駅がつくられている。昭和四一年一一月の工事着工以来二〇年ぶり、内山地区住民が、地域開発を目指して鉄道誘致運動を始めてから六八年の歳月がたつ。内山線は在来の内子線につながり中予と南予を結び、予讃本線として残ることが決っている長浜町経由の海岸線とともに幹線鉄道の役割を果たしていく。新線は沿線住民に地域の活性化・再開発をもたらし、山間沿線町村に大きな影響を及ぼすこととなるだろう」
 三日、国鉄・日本鉄道建設公団主催により、白石愛媛県知事・運輸省関係者らが出席、新設の伊予中山駅で午前一〇時二〇分から発車式を行い、高松発宇和島行き下り特急しおかぜ一号が新しい鉄路を走った。この後、内山線建設期成同盟会が喜多郡内子町の農村勤労福祉セン夕ーで竣工開業祝賀会を開き、新線の開業を祝った。
 なお、中山町では、開業当日の開通式に先立ち、伊予中山駅横に建立した顕彰碑の除幕式を行い森井苫三郎等功労者の顕彰を行った。

表4-11 愛媛県における国鉄の伸展

表4-11 愛媛県における国鉄の伸展


図4-4 国鉄内山線略図

図4-4 国鉄内山線略図


国鉄内山線建設年表①

国鉄内山線建設年表①


国鉄内山線建設年表②

国鉄内山線建設年表②


国鉄内山線建設年表③

国鉄内山線建設年表③


国鉄内山線建設年表④

国鉄内山線建設年表④