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中山町誌

第三節 電気

 我が国で初めて電灯が灯されたのは、明治一一年(一八七八)といわれている。
 愛媛県では、明治三四年一二月伊予水力発電株式会社が設立され、同三六年一月に三津浜に点灯、同年四月道後に点灯し、五月には松山で三、〇〇〇個の電灯が点灯した。
 中山町では、明治四四年から伊予水力発電株式会社によって電柱建設地の立入調査が始められ、大正二年に町中央部の泉町、豊岡へ初めて点灯された。
 当時の様子について岡田義緑は「電灯がついたのは私が小学校の二年生の時だったと思う。小学校前に変電所が建設され、やがて電気が灯った。当時は燈油や、ローソクを灯して不自由と思わず暮していた。町の中は夕方になると大きい店の軒下に釣るされていたランプに灯が灯されていた。そこへ電灯が点灯され昼が来たようで驚いた。両親は、五燭光の電球を見て、これなら夜中でも仕事ができると話していた」と語った。大正二年度中山村役場の年間電灯料は、八円四〇銭を支出している。
 佐礼谷村へ点灯されたのは、大正一二年のことである。
 「旧暦七月二一日、坪之内の大師堂ヘ一○○燭光の大きな電灯がつけられ、村民はみんな珍しがって見に行った。当初、散宿所は日浦にあったという話だ」(山中善男談)
 電気の点灯は、本町近代化への前途を照す燭光であり、新しい時代への大きい転換点として意義づけられる出来事であった。
 しかしながら長いランプ生活に馴れ、節約こそ美徳とされた時代、電気が便利で貴重なものであることは知りながら、全町民が一度に電灯生活の恩恵に浴することはできず、加えて戦前、戦中と物資不足ということもあって、電灯は、泉町、豊岡の周辺部落から遠隔部落へと順次点灯されていった。
 野中小学校へ点灯されたのは、昭和二年、永木小学校は昭和五年で同校下の福住・梅原区は、喜多電気株式会社によって昭和八年点灯された。
 平沢区加戸森一は「平沢区中組(一三戸)は、昭和初期立川村の二宮製材が発電しており、その送電によって点灯していたが、部落全部へ電気がついたのは同一九年であった。戦時中で物資が乏しく、電柱は自分達で建て、電線は米や小豆を持って行って購入した」と語っている。
 このように地区住民の努力によって遠隔の住家にも順次点灯され、特に戦後は、無灯火地域解消をねらいとした電気導入補助制度も施行され、全住民が電灯の恩恵を受けるようになったのは戦後二〇年代末であった。
 また電力については、昭和初期に製糸工場や、製材工場が電動機を動力源として使用するようになって送電線も補強送電されるようになった。

 原子力発電所の送電幹線建設
 四国電力株式会社は従来の水力発電、火力発電に加え増加する電力需要に対応するため西宇和郡伊方町へ原子力発電所を建設した。
 そして、送電のための幹線が本町を通過し、次のとおり供用が開始された。

表4-10 中山町通過の送電幹線

表4-10 中山町通過の送電幹線