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中山町誌

二、 マンガン鉱

 マンガン鉱床は銅硫化鉱床とほぼ同様に、結晶片岩、古生層、中生層中に層状ないし塊状に胚胎している。一般的に規模は小さく、一鉱体五〇〇トンとまとまったものは大きい方である。俗にマンガン鉱は地表近くにあるといわれるが炭酸マンガン等は必ずしもそうではない。これはマンガン鉱床が形態規模共に不規則で多くの場合これを下方に追うことは採算上不利であり、よほど状況がよくない限り、深部の探鉱を断念するためである。
 佐礼谷敷野地区のマンガン鉱床は、緑色または黒色の結晶片岩を母岩とし、規模も小・中位で、鉱石は二酸化とバラ輝石を多く伴なう炭酸マンガン系統である。従って主として、製鉄、製鋼のために使用される。ここの稼行は日中戦争が始まった頃、二酸化マンガンを主体として少し行われたが沙汰止みとなっていた。戦後も低調を示したマンガン鉱の生産が火を噴いたのは、昭和二五年より同二八年までの朝鮮動乱による鉄鋼の特需と、昭和二六年三月の統制価格撤廃に刺激されたものである。敷野地区の稼業もこれと全く軌を一にし、昭和二五年に再開され同二八年暮には休止した。労務者は現地の者が多く雇用され、最盛時には、月産一〇〇トンに及んだ。当時の価格はトンあたり二酸化マンガンが二万円、炭酸マンガンが七、〇〇〇円、バラ輝石五、〇〇〇円程度であったといわれる。