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中山町誌

一、 銅と硫化鉄鉱

 含銅硫化鉄鉱床とは、硫化鉄鉱中に銅鉱が随伴してくるもので、本町鉱山の大部分もこれにもれない。しかしこれの採掘の変遷を見ると、当初は専ら品位の高い銅鉱が対象であり、工業技術の進歩に伴ない順序品位の低いものも対象とされるようになった。硫化銅鉱が対象となったのは、肥料化学が盛んになってからのことであり、銅に比べて歴史は浅い。しかし、技術の進歩に伴ない貧鉱まで拾われるようになったのは銅鉱の場合と同じである。
 まず寺野鉱山について見ると、旧佐礼谷村里正鷹尾吉循が慶応年間に着手し、小規模な山元製錬を行った。稼行の対象は、専ら銅であり、銅七%以下くらいの鉱石は当時の技術から相手にされなかったものと思われる。しかも、この稼行はあくまで創始者としてのものであり、明治初年までは経営されていたが、資本が尽きた形で、明治一〇年頃大阪の備中伝助に譲られた。価格は七円であったと伝えられている。
 備中はいわゆる当時の鉱山師であり、ここに初めて専門家の手による経営が行われるようになったのであるが、採掘の対象は依然として銅であり、その主体は「渡り鉱夫」と呼ばれる他国者であった。「渡り鉱夫」に対して地元で養成し雇用せられる者を「地子」と呼び、手掘りの他に導火線のない煙硝が用いられた。この経営は良い鉱床について好況に向かったが、なかんずく、明治二〇年より同二五・六年の間か最も隆盛であった。山には飯場長屋が並び学校もでき、早朝から製錬のふいごの火が燃えた。現在、佐礼谷の拝鷹川筋に見られる通称「かなくそ石」は当時からの熔滓なのである。粗銅を積んだ荷馬は延々と郡中港に向かい、正月ともなれば薦被り(洒樽)がいくつもぬかれて鉱夫達は酔いしれたといわれる。当時この鉱山によって生活した者は約一、〇〇〇人と伝えられるが、採鉱量等は不明である。
 二、三年の後、坑道が延長するにつれ、湧水が多くてこれの処置が出来ず休山した際、久万の井部栄範が再興に着手したが、溜水が多く残鉱を採取するだけにとどまった。
 明治四一年(一九〇八)二月、鉱山は西宇和郡川之石の宇都宮寿平の手に渡り、探鉱した結果、新鉱床が発見された。明治四二年八月、大阪市南区北久太郎町三丁目鈴木駅次のものとなった。当時の採鉱量は年間約一、一七三トン、製銅高約二七トンと記録されている。しかも、この頃は既に山元製錬は下火となり、銅鉱はほとんど設備の整った工場に送られるようになっていた。
 その後順次品位の低い銅鉱が対象になったが、採掘は追々しり細りとなり昭和七・八年の頃には休山の状態になった。住友金属鉱山㈱の手によって主として硫化鉄鉱を対象に何度目かの稼行が始められたのは日中戦争直前であり、戦時国策の線に沿って採掘と残鉱の拾得が行われたが戦争の拡大につれて休山し、戦後も手がつけられていない。
 比較的新しい稼行の中山鉱山について見ると、昭和一二年(一九三七)二月、日進鉱業㈱は大阪の奈良井鉱業部より本鉱山を譲り受け本坑水準上の探採鉱を手堀りしている。昭和一六年(一九四一)四月戦時増産の要望に応え、三馬力電さく八台を備之本坑水準下の探鉱を開始したが、排水、運搬に支障をきたしたので翌一七年次のような設備増強を行った。
 原 動 機 ディーゼルエンジン一○八馬力一基
         ディーゼルエンジン三五馬力一基
 空気圧縮機 三〇馬力一基
         七五馬力一基
 捲 揚 機 一〇馬力(能力二・五トン)
 タービンポンプ 一○馬力二基
 さく岩機 ジャックハンマー 八
       ドリフター    ニ
       ストーパー    ニ
       ビックハンマー  四
 抗外運搬 本坑と具道間五八〇メートルの自走架空索道を架設、
        終点ヘコンクリート製一〇〇トン貯鉱舎の建設
 以上の設備を整え手掘りを併用し、一日二交替制で経営に当たった。当時の従業員は一八一名、粗鉱五、〇〇〇トンを年産している。しかし、昭和一九年(一九四四)五月、軍当局の要望によって、従業員は高知県の築城作業に従事することになり、休山してしまった。
 太平洋戦争後の昭和二二年九月に再開、荒廃した坑内を整備し、従業員四六名で手掘り、機械掘りを併用して稼行を続けた。昭和二六年五月、大前兵治の所有になり、銅三%、硫黄四〇%の鉱体採鉱していたが、手堀りであった上に排水、運搬などの面で作業困難となり、昭和二九年七月施設一切を現鉱業権者が経営する砥部町銚子滝鉱山に転用し、休山して現在に至っている。
 なお、本町諸鉱山の休山はいずれもこの前後である。表3-7は戦後稼行当時の諸鉱山の生産実績であるが、記録が無くてあいまいなものは省かざるを得なかった。

表3-7 銅鉱・硫化鉄鉱生産一覧表

表3-7 銅鉱・硫化鉄鉱生産一覧表