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中山町誌

一、 家内工業

 紺屋
 文献によれば、中山・出渕村より藍玉を大洲藩に納入していたことが明記されている。紺屋とは、この藍を使ってする染色工場のことであり、中山町でも大正末期まで家内工場があったが、現在では残っていない。

 蝋屋
 大洲藩時代、多数のろうそくが長浜へ出荷され、また、ろうそくの原料である木蝋が長浜の工場へ送られていたことが、古文書に載っている。
 蝋屋は、ろうそくの原料である木蝋を生産する工場で、同工場内でろうそくも作られていたと思われる。
 「ハゼの木」の果実を石臼でつぶし、熱湯で溶かし出したものを日光にさらし、漂白し蝋を作り出すもので、原始的工業であった。現在の豊岡一区元高橋病院の場所にあったという。大正末期に廃業している。

 製紙業
 楮は江戸時代に大洲藩によって、茶・うるし・桑と共に「産業の四木」として奨励されており、元禄期に大洲藩は楮苗を土佐藩に求めて、民間に生産を奨励し、大洲半紙を作らせた。
 藩は、この製紙の事業に着目し、宝暦年間に楮役所を設けて専売品とした。それ以来、半紙は大洲藩の重要な財源となった。中山・出渕地区でもこの時代より楮を原料とする製紙が営まれており、楮の皮をはぎ、天日で乾かし、水に浸してから、ソーダ灰などで煮た後、さらし粉で漂白する。これを叩いて繊維を解離し、紙にすくのである。平沢その他の一部の地区で家内工場的に営まれていたが、昭和三〇年頃に廃業している。

 製糸業
 中山町においては、大洲藩時代より桑の栽培、まゆの生産が山間部において奨励され、家内制手工業的に糸がつむがれていたが、明治末期に中川某が動力使用の製糸工場を泉町の中山川沿いに設置し、操業を始めた。しかし、昭和初期に景気の悪化等の影響により廃業のやむなきに至った。現在は、その跡(現商工会館)も見ることができない。

 酒造業
 酒造の歴史は古く、古文書によれば、江戸初期に、中山・出渕両村で七軒の酒造業者のあったことが記されている。また享保年間に酒造業の権利譲渡書とか、官許の書状等の残されていることは、江戸時代も、酒造するには藩からの免許が必要であったことと証明している。
 この七軒の酒造業は、代こそ替われども昭和の時代に入っても続いてきた。その後戦時中の整備により、昭和四〇年代まで一軒(亀本酒造合名会社)だけが経営を継続していたが、現在は残っていない。

 鍛冶業
 大正時代の大瀬鉱山華やかなりし頃は、農具や鉱業用器具を製作する鍛冶屋の数も、六軒の多きを数えていたが、時代の変化と共に、現在は一軒もない。

 製粉、精米及び製麺業
 古来より麺類は、冠婚葬祭等の行事の料理に欠かせないものとされ、現在その消費の伸びは大幅に群を抜いている。中山町の麺製品は、各地において味の美味なことで喜ばれている。
 また精米は、昔は酒造家がそれぞれ自家用として設置したり、各地区においても、足動式・水車の力を利用した製粉・精米所を設けていた。しかし、現在は、製粉や精米のみの経営でなく、複合経営に転換し、電力機械を導入し、営んでいる。

 製傘業
 昔より、竹と紙とに恵まれていた中山地区では、製傘が盛んに行われ、全盛期には一〇軒余りの製傘業者が、空地や広場に傘を干す風景がみられた。
 しかし、洋傘等の普及により、廃業するものが相つぎ、現在は一軒もない。

 農産加工業
 中山町は古来より、栗・筍等を生産し、現物は精撰されて、都市部等へ送られるほか、缶詰加工していた。現在は、農業協同組合の加工場で製品化し、他は廃業している。筍加工場は、現在の豊岡二区の玉井益一宅にあったらしい。

表3-3 中山村の家内工業の種類と生産状況

表3-3 中山村の家内工業の種類と生産状況