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中山町誌

概要

 本町は、江戸時代には、中山村・出渕村・栗田村及び佐礼谷村の四ケ村に分かれ、大洲藩に属していた。
 大洲街道を旅する人たちが休憩の場所として、茶を求め、すり切れたわらじを取替え、又木賃宿での泊り等、宿場町であった。
 家内工業によるろうそくの生産、現地より採取する楮からの紙の製造、また、蝋・はぜ・あい・煙草等が仲買人の手によって長浜の問屋へ送られていたことが文献に残っている。
 中山村には御免地があり、泉町を中心として、道路沿いに旅館や飲食店・料亭のほか各種の店が軒を並べ、盆・年末には市が立つようになった。
 当時大洲藩は、参勤交代等による費用の流出を補うために産業を奨励し、木蝋の保護に力を入れ、また楮苗を土佐国より求めて、民間に生産を奨励して半紙を造らせ、宝暦年間には、楮役所を設けて専売品とした。そのため、宿場町として発展する一方、このような商いをする店も数を増してきた。
 その後、明治維新の波はこの地方へも押し寄せ、廃藩置県によって、下浮穴郡と喜多郡へ分かれ、明治二二年には四村とも下浮穴郡(現在の伊予市、伊予郡)となった。また文化の発達に伴なう新道路の建設・交通機関の発達は、今まで人力か馬の力に頼ることしか出来なかった中山地方の人々にとって従来の産物である栗・木炭・木材等の町外への輸送を容易にさせた。それと同時に、日用雑貨等数多くの品物が、店先に姿を見せるようになり日常生活にも変化が見られるようになった。その結果、泉町・豊岡を中心とする工場や商店による町作りがなされるようになった。さらに、明治四〇年以降の大瀬鉱山、その周辺の地下資源の開発に伴ない、その中継点として中山町の商工業が発展してきた。多くの店が軒を連ね、旅館・料理屋・検番・置屋等があり、商い人・旅人等の取引の場とし、繁盛したと伝えられている。
 その後昭和に入って、アメリカのウォール街に源を発した金融恐慌等幾多の変遷の波をくぐりながらも、中山町商工業界は町の発展と共に進んできた。
 しかしながら、日中戦争、さらに太平洋戦争への突入、戦争が長期化するに従い、日本経済は統制経済に移ることを余儀なくされ、そのために中山町商工業界も衰退の危機に立たざるをえなくなった。昭和二〇年八月一五日の終戦は、戦争中より進んでいたインフレを益々高め、物資の不足、世相の混乱と相まって不況の波をかぶることになった。
 戦後の混乱が次第におさまると、占領政策の転換・朝鮮戦争の勃発によって、日本経済に好転の兆しが見え始めた。インフレを続けてきた日本国内に特需景気を生み出し、さらに昭和二八年のデフレ政策は、生産上昇と輸出景気に発展し、「神武景気到来」という言葉の通り経済は今までにない好況で活気に満ちていた。
 日本経済の上昇と共に、中山町においても、商工業は徐々に立直りをみせ、高度経済成長期を迎えたのである。
 昭和四五年国道五六号線の全線改良工事完成によって、都市近郊における農林産物の供給基地として、野菜等の生産・出荷が盛んになり、農林業を基幹産業とした町づくりが展開された。しかし、商業・サービス業においては、都市との時間短縮等の影響により、購買力の流出など大きな打撃を受けている。しかしながら昭和四八年以降、四国リス株式会社、光華メリヤス㈱中山工場を誘致するなどして、就業人口の増大を図り、産業基盤の整備等積極的に進められた。
 昭和六一年三月には、JR予讃本線(内山線)が開通し、同時に第三セクターによる有限会社中山町特産品センターが設立され、交通アクセスが飛躍的に充実される中で、農林商工一体の町づくりに貢献している。だが、過疎化の進行と住民の高齢化、生活圏域の拡大等に伴う消費の町外流出や外商の進出、大店法改正による大型店、スーパーの進出など厳しい環境下にある。