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中山町誌

第二節 明治以降の林業

 郷土誌にみる林業
 明治に入ると公有林制度の改革が行われ、明治八年地租改正によって耕宅地の整理に続いて公私有林野を区別し、その所有権を設定し、明治三〇年森林法が制定になり、同四〇年には保安林制度が設けられ、本県では同四五年に治山事業が始まった。
 造林事業については、明治三四年六月県令第四〇号によって愛媛県山林植樹費補助規程が制定されたが、その対象とされたのは公有林並びにこれに準ずるものに限定されていた。公有林以外の私有林に造林補助か下付せられることになるのは昭和に入ってからである。昭和二年一二月に愛媛県令第八二号で水源涵養造林補助金下付規則が施行され、さらに同四年一一月、愛媛県告示第七〇一号造林補助規程で民有林の造林を奨励するため一般造林補助の途が開けるようになった。
 明治期の林業については『中山村郷土誌』(明治四三年刊)に次の記述を見ることができる。
 「維新以前にありても各地方夫々法制を設け幾分かこれが森林、濫伐を禁し保存を計りしと星も維新以後海内鼎沸し法禁亦行はれずこの時に当り巨木大樹の濫伐せられしもの亦勘からず然れども新政府漸く整理すると共に我政府の保護により殖林保存與用の方法見るべきものあるに至れり地方森林は樹木の種数に富むと云ふにはあらされ共、自然林―雑木山、人工林―杉松櫟」とある。
 また同年刊の『佐礼谷村郷土誌』には次のように述べている。
 「本村の植林は相隣れる諸村に比して進歩の跡著しきをみる連嶺環峰鋤犂及ばざるなく苗木植えられざるなし、松・杉・椢(櫟)その多きを占め就中杉を以て最多となす斯く現時に於ては植林の業盛なりと雖も今より半世紀前にありては自然の密林となるに委せ或は草刈場となさんが為の毎年之を焼き拂いたるものなりと云う。
 自然林―雑木多くして其の価格低廉なるを以て近年追々人造林と化せられつつあり
 人造林―植樹中最も多きを占むるは杉なり。(中略)
 田畑に小作の法あり、山林に亦借地の制あるを要すされど本村に於ては自己植林をなすもの多くして借地によりて植林をなすもの一もこれなし。されど資本と労力を有するも山地を有せざるものは少しも植林の利を享くることを能わざるは本村林業界の現状也。
 林産物は素材のまま之を販売するを常とし販路は殆んど郡中町に限らるるが如し。
 林産業現時の傾向を概言すれば去る明治二七、八年役以来木材の価格年々曻騰せると国道の開通せるとにより林業家の純益多大となりしを以て近年伐採の量激増し松杉の別なく老木年々其の影を失い近き将来に於て伐採し得るもの大いに減少するに至れり。薪炭も亦近年逐次高値を保つに至りたれども尚建築用材の利潤多きに如かずとして林業家は松杉等の植樹を第一となすの傾向を有す。」
とある。なお林野面積等と林産物生産額は、次表のとおりである。
 前記のとおり明治期においては、森林法は施行されたが保安林を中心とした施策であり、民有林育成のための補助制度等行政機関による林業振興策は未整備であった。しかしながら県内の篤林家による研究が進められ、明治六年には久万町において井部栄範が吉野式造林方法を導入して今日の久万林業の礎となる植林を始めた。また木炭については、明治四三年内子町の越智良一がクヌギ炭の切炭加工を実施し阪神方面に出荷する等、活動が始まるが、中山町では先進的な動きは生まれていない。
 大正期に入ると林業振興のための施策も順次整備され、同元年本県は第一期治水計画を立て、同二年には民有林の共同経営を勧奨するため県内に初めて森林組合の設立を見る等、林業近代化に向っての動きが出始めている。大正一二年(一九二三)、喜多郡では愛媛木炭同業組合が設立され、また林道改修や木炭倉庫共同設置事業に対す補助金交付のため、同一五年には、林業共同施設補助金下附規則が発布された。
 中山町の山林は、昭和四〇年代までは広葉樹林が林野面積の五〇パーセント以上を占め、従って薪炭材が豊富であったことから大正期に入って製炭業が盛んとなり、大正一三年には中山村で一三万五、〇〇〇貫を生産するまでに成長した。また素材生産についても、道路が順次開発されるに従って増大し、同年には杉材三四万戈・松材二八万戈・桐一、〇八〇戈で生産額は二万七、二八〇円となった。
 大正一〇年における中山村の樹種別林野面積等林業関係資料は次表のとおりである。

 ハゼの栽培
 大洲藩の産業奨励によってハゼの樹の栽培は年々盛んとなり、天保元~一四年(一八三〇~一八四三)前後には三千貫も生産した農家があったといわれる。さらに文久年間(一八六一~一八六三)に至って、内子町の芳我弥三右衛門が晒蝋の方法を発見したことによりハゼ栽培は一層盛んとなった。明治四二年における中山村の生産量は二万二、〇〇〇貫であり、大正一三年の作付面積は二三〇反、生産量は四六、〇〇〇貫、生産額は一万一二○円とあり、有力な収入源であったことが窺える。なお昭和六年には一七五反、三万五、〇〇〇貫、三、五〇〇円に減少し、昭和八年には六〇反となり昭和一八年には五、〇〇〇貫を生産しているが、昭和三〇年代になると町内でハゼの樹を見るのも珍らしくなっていった。
 製蝋事業も行われ、福住区の松本芳雄宅は今でも通称「蝋屋」と呼ばれている。
 松本芳雄によると「ハゼを手広く栽培して製蝋をやっていたが、親爺の代の明治二七年五月製蝋所から出火して全家屋を焼失した。この火事で製蝋事業は止め、ハゼ樹の栽培だけを行うだけになった」そうである。
 大正一三年の統計資料によると、生蝋所一、職人二とあり、生蝋一、二〇〇貫(三、六〇〇円)を生産しており、昭和期まで生蝋造りが豊岡区で行われていた。

 竹材その他
 中山町の竹林面積は昭和三二年で二九九ヘクタール、平成六年には一七八ヘクタールである。明治期では佐礼谷村が二二八ヘクタールの竹林を有し、中山村と合わせると六〇〇ヘクタールを越えたものと推計され県内有数の竹材とだけのこの生産地とされた。
 竹は主として苦竹・淡竹・孟宗竹の三種である。苦竹・淡竹は元来、自生し繁殖してきたが、孟宗竹は中国原産のもので、今よりおよそ二六〇年前の元文元年(一七三六)薩摩藩主島津吉貴公が中国から琉球を経て取りよせ繁殖させた。その後京都に移植せられ、愛媛県へは文化七年(一八一〇)、松山市湯山の宮本作右衛門が京都から親竹二本を持帰り順次広がっていったと伝えられている。
 竹材の用途は広く、壁材をはじめ、「籠」「ざる」「箕」等農具や、傘の骨等家具・民具・梱包材等その特性を活かした用途が開発されていった。
 大正一二年における中山村の竹生産量は一、八二〇束、三、六一〇円で、昭和一〇年には四、七〇〇束、一、三二〇円の生産額となっている。
 昭和一〇年代から戦後にかけて、農家の副収入として竹材やだけのこの生産が盛んとなり、奥田源一郎や山内広吉等竹問屋によって販売されていった。
 また当時は、竹加工職人も多く、大正一四年には竹製品製造戸数七戸、職人男一〇人女三人計一三人で、籠・笊の生産額は二、三〇〇円とある。
 竹は六〇年に一回枯れるという言伝えがあるが、本町の苦竹・淡竹林は昭和四〇年代初めに花が咲いて全滅した。現在の竹林はその後再生したものである。
 竹製品業者も戦後プラスチック製品等の普及によって減少し、現在竹細工のできる人は町内で数人となっている。
 その他林業副産物として、棕梠皮・竹皮の生産も盛んで昭和一八年棕梠皮六〇万枚竹皮一、二〇〇貫を生産し、その出荷は戦後の昭和二〇年代まで行われていた。

表2-1 所有者及び樹種別林地面積

表2-1 所有者及び樹種別林地面積


表2-2 林業生産額

表2-2 林業生産額


表2-3 所有者別樹種別林野面積

表2-3 所有者別樹種別林野面積


表2-4 民有林野造林調

表2-4 民有林野造林調


表2-5 林業労役夫数調

表2-5 林業労役夫数調