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中山町誌

二、 大洲藩の林政

 肱川流域における林政の沿革は、県下各藩とも同様で、戦国時代の原始林に対する略奪的な乱伐・暴伐の時代を経て、人工的に多少の植林も行われ、伐採に当たっても治水的な面より保安林的要素をもって実施され始めた。徳川時代に入ると元和三年(一六一七)に、加藤貞泰公が大洲城に六万石で移封され、現在の大洲市、喜多郡、伊予郡、上浮穴郡の一部を領有するようになり、以降具体的な林政の歴史が始まる。貞泰公は元和九年四四歳で死亡、その子、泰興公が一五歳で大洲城主となり四八年もの長きにわたり、善政を施した。泰興公は、中江藤樹・盤桂禅師に師事し、家老もまた城主を補佐して、産業振興に努め、養蚕・ハゼの植栽・コウゾ・クヌギの植栽・スギ・ヒノキの植林を奨励した。領内にクヌギの美林が多いのは、泰興公の植林奨励の賜物である。特に、クヌギは生長も早く燃料用には最適であるとして、植栽奨励を行ったのが実ったものと考えられる。
 大洲藩の産業奨励で、特筆すべきものとして、ハゼの栽培と晒蝋の発見がある。寛保二年(一七四二)頃から植栽が始まり、天保元~一四年(一八三〇~一八四三)前後に至るとその成果が見られるようになり、大洲藩内のハゼ樹の栽培は年々増殖し、一農家で三千貫もの収穫を得たものもある。
 肱川上流に位置する中山町は、大洲藩に属していたため、これらの影響を受けて、林業の原形ともいうべきものは、この頃から始まったと思われる。