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中山町誌

一、 旧中山町

 1 産業組合時代

 起源
 産業組合は、イギリスの工業都市ロッチデールの労働者二八人が一ポンドずつ出して、一八四四年購買組合を設立したのが始まりである。ドイツはこれより一八年遅れて、ライファイゼンにより、農村救済の為に農村信用組合が設立せられたが、この組合は、単に物質的利益の増大のみを目的とせず、多分に精神的向上を目指したところに大きな特色を持っていた。
 我が国では、明治の初期、たまたま全権公使としてドイツに駐在していた品川弥次郎が平田東助と共に、ヨーロッパ諸国の動静やドイツ産業組合の業績について、つぶさに調査研究を重ねたのが始まりのようである。
 明治一四年品川弥次郎が内務大臣になると、当時窮状にあった中小生産者を救済するため、平田東助の起草による信用組合法案を第二帝国議会に提出したが、陽の目を見るに至らなかった。しかし、こうしたことから、各地に信用組合設立の動きが現われ始め、やがて明治三三年の産業組合法制定を境として全国的な動きに発展していったのである。

 創設
 中山町においてもこのような情勢から、産業組合創設の機運が次第に高まり、商業組合関係者の抵抗を排除して明治四四年一月二八日、現在の農協Aコープの場所に事務所を持つ保証責任中山信用購買販売利用組合の誕生をみたのである。この組合こそ、現在中山町の産業経済に中核的役割を果たしている伊予中山農業協同組合の母体であり、この創設は即ち伊予中山農協史の第一ページともいえるわけである。
 なお初代組合長に窪中鉄次郎が就任、理事には鷹尾寅太郎・亀本増衛・久保国市・森平万治郎・今岡金五郎・上東長太郎・山田筆三郎、監事には松本藤蔵・井上伊太郎・山本米吉・宮内長太郎・笹田久吉が名を連ねている。

 初期
 創設当初の事業内容は信用事業が主であったが、消費購買事業も補足的に行っていた。例えば、当時酒屋組合の小売価格が高いため、村外から安価な酒を購入して組合員に売り出すなどして話題を呼んだこともあった。
 これは、ライファンゼンのいわゆる消費協同組合的行為であって、互助組織により、組合員の経済的独立と向上的精神の滋養をねらったものである。
 ところが、非常な意気込みと情熱を傾け、共存共栄・相互扶助の精神に立脚した組合運営も、商行為的経済行為の不慣れから、不良売掛と貸付金の回収困難が目立ってきた。さらに第一次世界大戦後の不況は、組合員の経済状態を極度に悪化させて倒産が相つぎ、担保流れとなる債権が続出した。そのうえ、理事者間においても貸出し賃金が多額となり、組合運営が危くなったので、人心を一新して再建を図る必要から、組合長に森平萬治郎、専務に後藤利平を選任した。大正一二年五月六日のことである。

 整理期
 森平萬治郎は素封家の生まれ、性重厚で理財の道に長じていた。また信用組合設立当初からの理事として、経営内容にも精通していたので、不良債権の整理に熱意を払い昭和二年頃には、ようやく安定の度を加えてきた。当時担保流れとなった物件の中には、雨翅の農協有林(昭和四四年ゴルフ場として売却)のように、固定資産として現在の経営に貢献しているものもある。
 経営の安定化に伴い、産業組合としての在り方から事業内容の改善を図り、生産指導と、農林産物共同販売の大綱を打ち出した。時の町農会でもこれとタイアップして、その技術員であった有賀次郎を大阪方面に派遣し、栗の共同販売事業が始められた。
 これに続いて、昭和六年頃には木炭加工組合も設立するなど、農林産物共同販売の基盤が着々と培われていった。またこの頃になると、農家の化学肥料依存度が次第に高まってきたので、購買事業もこうした生産資財に重点を置くようになってきた。

 発展期
 第一次世界大戦後の沈滞した景気は、満州事変を契機として好転に向かい、組合も組合員も、その経済的危機を脱して、発展が望まれるようになった。
 当時、中山町農家の経済を支えていた主なものは養蚕・栗・木炭であった。養蚕関係では、農会の世話で養蚕組合が設立されたが、特に栗については、子組合的存在である中山栗出荷組合を通じての共同出荷販売が極めて盛んとなり、遠く米国にまでも輸出されるようになった。本炭の共同加工販売も相当の実績を挙げ、昭和一ニ年には、現在の事務所前に倉庫を建て、事業態勢の整備を図るほどであった。
 その間専務理事に異動があり、奥田源一郎・宮田真実・井上与吉へと引き継いでいるが、特に森平組合長は、昭和一四年四月まで一六年間も組合長を務め、非常勤理事を合わすと、実に二八年の長きにわたって組合経営に尽くされた功績は、全く偉大の二文字に尽きるといわねばならない。

 太平洋戦争前後
 組合経営が組合長亀岡浪吉・専務理事中岡森衛の手に移って順調に進むうちに、日中戦争は長期化の様相を呈してきた。そのため戦時体制の強化が叫ばれ、国内の産業経済もこの方向に大きく転回していった。こうした情勢推移の下では、産業組合としても、軍事物資・食糧の増産・繊維資源の開発等、事業内容を変えていかなければならなくなった。
 やがて昭和一六年となり、組合長に森平茂左衛(当時組合経営の監査・指導を行う県の係官)、専務に城戸庄五郎、常務に加戸長三郎が新たに就任した。
 太平洋戦争突入後は、食糧増産をはじめとして戦争遂行上必要な物資の調達など、産業組合の精神から離れた運営を余儀なくされ、その本来の機能を発揮する術は全くなかった。しかも戦局はいよいよ重大となり、国家動員体制が完全に布かれるに及んで、遂に昭和一九年四月、産業組合は三三年間の歴史に終止符を打って、農業会の誕生となった。

 2 農業会時代

 農業会は、産業組合・畜産組合・養蚕組合等の農業関係諸団体を統合して作られたもので、性格上政府の御用機関的色彩が極めて強く、指導・販売・集荷・配給・統制等の面に、政府の代行機関としての権限を持っていた。従って農業会は、それ自体、農民の自主的団体ではなく、組合員は「戦争に勝つために」の合言葉の下に厳重な統制を受けた。
 昭和一八年一二月三一日、会長高橋芳我雄(当時の町長)、副会長岡田昌年・専務城戸庄五郎をもって発足、以来政府の要請どおりに会の運営が行われたが、間もなく敗戦となり、運営責任者も、昭和二一年には会長森平茂左衛・副会長城戸庄五郎・常務泉鹿雄に代わった。
 敗戦後連合軍の管理の下に、長年圧政に苦しんだ農民の社会的・経済的地位の向上のため、第一次農地改革が始まったが、農民の、農民による、農民のための機構を目指して昭和二二年一一月、農業協同組合法の制定となったのである。

 3 農業協同組合時代

 発足
 農業協同組合法制定後、全国各地で農業会を解散し、その債権・債務を新組合に引き継ぐという形で農業協同組合が発足した。中山町においても、西岡進が委員長となって設立準備を始め、昭和二三年四月、正組合員一、〇〇五名、会長森平茂左衛・常務泉鹿雄・西川等貞・西岡進をもって中山町農業協同組合が発足した。
 この農業協同組合は、あくまでも農民の自主的結合に基づくもので、加入・脱退も随意、組合長といえども、理事会の決議に従って要務を執行するという民主的性格を多分に持っていた。その運営についても、信用・購買・販売・利用・加工はもちろん、生産並びに営農指導などの、農家にとって極めて魅力的な事業計画を設定して進められることとなった。発足に際し、当時の混乱世相を反映した道徳的頽廃と深刻な食糧難の中で、しかも戦時中からの不良・不用物資の在庫を抱えて、運営の容易でないことが予想されたが、どこまでも障害を乗り越えて輝かしい発展を遂げるべく、盛り上がる力を結集して、力強くその第一歩を踏み出したのである。

 初期
 発足当初は、物資不足の為闇取引が横行し、インフレが急テンポに進んでいたが、農家は食糧生産を武器として、百姓大名といわれるほど、比較的恵まれた経済状態を保っていた。昭和二四年五月、組合長に西岡猛夫・常務に西尾正義・西川等貞が就任するに及んで、従来の精米事業に加えて、懸案の筍缶詰・醤油醸造の新規事業を開始した。続いて葉たばこ収納所・農協事務所の建設等、次第に充実した内容を持ち、運営は健全な方向をたどった。
 戦後の混乱期が過ぎると、国内産業経済の復興に伴って生活物資が豊富となり、食料事情も逐次改善されてきた。しかし、景気はデフレに転じ、商社の倒産が現われ始めると共に、農家でも、現金収入の増加が生活費の増大に追いつかず、農家経済は急速に悪化していった。こうしたことから未収売掛金が一千数百万円、県外の木炭・栗の未収金は一、〇〇〇万円にも及び、見通しは非常に苦しいものとなった。そこで遂に昭和三〇年二月新旧役員のバトンタッチが行われることになった。

 整理期
 新たに選任せられた西岡進組合長、西尾正義・上岡繁義常務が中心となって、県外の未収売掛金の整理については、現金収入を増やして支払能力を高めることが、根本解決策であるとの固い信念の下に、白菜・トマト等のように、年内所得になるものの栽培と、果樹振興に重点を置く営農指導を強力に展開した。組合員の自覚や向上心も旺盛で、予想以上の成果を挙げ、組合に対する信頼度も倍増し、昭和三五年には見事赤字克服に成功することが出来た。
 思えば、郡内はもとより、県内でも優秀農協と折紙つけられるようになったのは、こうした役職員・組合員の渾然一体の真剣な努力があったればこそで、誠に喜ばしい限りである。

 佐礼谷農協との合併
 戦後の産業復興、高度の経済成長の中で、産業構造改革が叫ばれ、資本の系列化・経営の合理化など、産業体質改善が進められていった。農業もその例外ではあり得ない。農業構造改革・農業体質改善必至の時でもあり、農業協同組合こそ体質改善を先んじて行い、指導並びに金融経済の万全を期すべきであるとの意見がおこったのも当然である。ところが、ときの農協は、総体的に経営規模が弱小で、強力な指導は到底望むべくともないため、合併が全国的に推進せられることとなった。
 このような時代の要請の中で、中山町においては、昭和三〇年の町村合併後も、佐礼谷・中山の両農協が依然として分立していたため、合併推進の対象と目されて、県農政課・県農協中央会・中山町当局の指導を受けるに至った。そこで諸般の情勢を検討した結果、幾多の問題はあったが、組合員の深い理解を得て、昭和三六年五月、合併が決議された。
 この合併により、組合長西岡進、専務松本吉兼、常務平井寅雄、正組合員一、三五五名、郡内最大の組合として中山農業協同組合が出現したのである。