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中山町誌

一一、 養蚕

 養蚕は明治時代から行われていたらしいが、その最盛期は大正一二年~昭和四年頃にかけてのようである。ピーク時には総農家戸数の六〇%以上がこれに携わり、桑園面積一五〇ヘクタール以上、総収繭量一〇万キログラムにも及び、売上代金は現在の貨幣価値に換算して五億円以上にも相当したといわれている。
 中山町に製糸工場があったのは大正初期~昭和初期であるが、大正末期からは有力な仲買人によっても集繭され、喜多郡の製糸工場へ送られたものもあった。当時有力な仲買人は豊岡の穂積・泉町の中川商店であった。なお大正時代に養蚕組合が設立され、高橋芳我雄が初代組合長となっている。
 隆盛を誇った養蚕も、大正一二年以後の生糸の暴落・蚕作の不安定(病害)に災いされて次第に下降線をたどり、昭和四〇年には、桑園約一〇ヘクタール・収繭量一万キログラム程度となった。
 養蚕を取り巻く情勢が厳しい中、雨翅で、高岡貞義ら五戸の養蚕共同経営組合が昭和三五年に発足した。四・五ヘクタールの桑園と一アールの共同飼育所二棟、上蔟室〇・五アール、雅蚕飼育所〇・五アールの施設で団地形成を目指して注目されたが、時代の推移と養蚕経営環境の厳しい現実に直面し、遂に廃業に追い込まれることになった。このような経過を経て、昭和四五年には、本町から養蚕業はすべて姿を消していった。