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中山町誌

一〇、 麦作

 麦は古くから当地畑作の主体であり、主要食料でもあった。特に戦中・戦後は、重要食糧として増収技術も飛躍的に進歩し、昭和二四年頃がピーク時であった。当時作付面積三七〇ヘクタール収量九九万キログラム(供出出荷量三、〇〇〇俵)、添賀、福元、高岡等の一等畑では、反収六〇〇キログラムの農家も現われた。しかしその後、食糧事情の好転、たばこその他の換金作物への転換等に伴い、作付面積は減少の一途をたどった。そして昭和三七年には二〇〇ヘクタールにまで落ちたが、農家の米食転向もあって、農協への出荷量は逆に五、〇〇〇俵と最高を記録するに至った。続いて翌三八年が期待されたが、七〇年来の豪雪と、気象庁開設以来の長雨に見舞われて、収穫皆無の憂き目をみたことも手伝ってか、三九年には、作付面積一五〇ヘクタールに激減した。その後五~六年で全く姿を消してしまうことになった。