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中山町誌

二、 名産「中山栗」の歩み

 (一)、江戸時代(永禄・寛永)
 日本最古の農業書といわれる「新民鑑月集」の農作物の種類の項に、かき・なし・ももなどともに栗が明記されていることから、一六~一七世紀には、すでに愛媛県では栗の栽培があったことを裏付けている。又、寛永年間(一六二四~一六四三)には、時の大洲城主・加藤泰興が参勤交代の時に、中山の栗を将軍に献上したと伝わっている。

 (二)、明治時代
 粗放な自然林から採れる栗は、明治時代には商品として換金されるようになり、次第に園地化されていくことになる。販売が軌道に乗るのは、明治一〇年頃からで、価格は栗一升が二銭だったという。明治二年の中山町の生産量は、二、〇〇〇~三、〇〇〇貫(約一一七トン)と記録されている。明治二〇年には、郡中港から大阪へ初出荷が行われた。

 (三)、大正時代
 大正に入ると、栗栽培は広がりをみせ、大正五年には当時中山栗の代表的品種であった赤みを帯びた中玉の品種を「赤中」と命名した。その年には、中島技師による講習会や、剪定講習会も開催されている。大正六年に小池地区、一〇年に高岡地区に栗出荷組合が設立された。大正七年頃の価格は、栗一貫(三・七五キログラム)が一円七五銭であった。

 (四)、昭和初期
 昭和二年には中山町栗出荷組合が発足し栽培面積が広がった。昭和五年には中山町から北米輸出が始まり、六、〇〇〇貫(約二二トン)を出荷している。この年の中山町の生産量は一三万貫(約四八七トン)であった。
 昭和一七~二五年頃には、福元の大松才助か中心となり、福元地区(現中山高校農場横)に、農業指導農場を設立、栗・野菜等の栽培農場として、中山栗振興に多大の影響を与えた。

 (五)、安定期
 昭和三〇年に入ると、栗の振興意欲も一段と高まった。昭和三四年に農林省育成の筑波(農林三号)が種苗登録され、昭和三九年に栗田・影ノ浦地区で構造改善事業が始まり、栽培面積・生産量が大きく伸びた。昭和四五年には、第三回全国くり大会が愛媛で開催され、中山町が産地視察の会場になった。昭和四七年には、農協出荷量が初めて一、〇〇〇トンを超え以後、一、〇〇〇トン以上の安定した生産量を誇った。

 (六)、低迷期
 昭和三九年に栗の輸入自由化が始まり、昭和四九年にはムギ栗の輸入が開始され、安い韓国産の栗が大量に輸入され、国産栗の価格を低迷させ、農家の栽培意欲を大きく減退させた。また、病害虫の被害も多発し、農業の高齢化・後継者不足等のため、面積と生産量が大きく減少した。

 (七)、現在
 名産中山栗を復興するために、町では栗改植補助・モデル園補助等の事業を実施し、農協では、特選・銘柄栗販売等の生産・販売改善、農家では剪定・間伐をはじめとする栽培管理の徹底等、三者一体となって取り組んでいるところである。

 (八)、中山町で栽培されていた主な品種
 赤中
 古くから中山町で栽培されており、大正五年に命名された品種で、果実が赤みを帯び、中玉で加工に適し、当時全国的に広がった。熟期は九月下旬。昭和三〇年のクリタマバチ発生によって壊滅的な被害を受け、現在では栽培されていない。

 小池盆栗
 早生種で小玉であるが、味が良く、小池地区を中心に栽培されていた。

 中早生
 明治四〇年に、高岡の山内惣衛が東京の日本種苗会社から導入した。赤中より熟期が少し早いので、「中早生」と呼ぶようになった。

 岸根
 山口県美和町が原産地で、平家の落人が大栗の穂木を取り寄せ、接木したのが岸根だと伝えられている。樹勢が強く、大玉で食味も良い。熟期は一〇月中~下旬。

 (九)、現在栽培されている主な品種
 日向
 極早生で、樹勢は強く直立性で、果形は三角円で大きさは中程度、食味は良好。熟期は八月下旬。

 大峰
 樹勢強く開張性があり、果形は帯円三角で、大きさは中~大。豊産性で食味良好。熟期は九月上~中旬。

 筑波
 農林省育成の農林三号が昭和三四年に登録され、クリタマバチ抗生品種として注目を集め、全国的に広がり、栽培面積の七〇%が筑波に集中した。樹勢は強くやや開張性で、果実も大きく、豊産性で食味良好。現在でも、栗の主要品種である。熟期は九月中~下旬。

 銀寄
 在来種で、日本栗の代表品種として、古くから栽培されている。食味が非常に良く、加工用としても最適で高級菓子の原料として利用されている。伊予中山農協では、昭和六三年から銘柄栗として、オール銀寄での特別販売を行い、大変好評である。樹勢は強く、やや開張性で果実は大きい。熟期は九月中~下旬。

 石鎚
 昭和四四年に農林省育成の農林五号が「石鎚」として登録された。樹勢は強く、開張性で果実も大きい。豊産性で食味も良く、クリタマバチにも強い。いうまでもなく愛媛県の最高峰石鎚山の名前から命名された。

 (一〇)、くりの主要病害虫
 実炭そ病
 毬(栗刺)では、一般に八月に入ると、表面、または刺に黒褐色の小斑が現われる。次第に拡大’して斑紋となり、表面に小黒粒の胞子を密生する。果実では、毬より遅れて病徴が現われてくる。果皮では、黒褐色、果肉は褐色に腐敗し、やや軟腐状を呈する。病菌は健全組織内で越冬し、春以降、衰弱または枯死すると多量の胞子を形成し、雨水で流されて伝播する。降雨が多い年に多発する。

 黒色実ぐされ病
 果肉が黒灰色~緑黒色に変色、腐敗する。症状が進むと乾腐する。細菌の二次感染を受けると軟腐し、異臭を伴う。果皮は黒褐色に変わるが、外見には何の変化も見られず、果実だけが黒変腐敗する例も多い。衰弱したり、枯死した枝などが病菌の生育場所で、ここから胞子が果実に伝染する。果実肥大期に、高温の続く年に発生が多い。

 クリタマバチ
 昭和一六年に岡山県で発見された。本町では三〇年頃大被害を受けた。年一回の発生、芽の中で越冬し、春に芽が大きくなるとともにこぶができ、芽が伸びなくなるので樹勢が衰弱し、結果が悪くなる。現在では天敵防除(チュウゴクオナガコバチ)が行われている。

 クリイガアブラムシ
 別名キナコムシともいわれ、毬に寄生して早期の落果と若はぜ状になり、被害が大きいと収穫皆無になる。中山町では、昭和五〇年代後半から大被害を受けた。現在防除法が確立されておらず、非常に防除が難しい害虫である。

 モモノゴマダラノメイガ
 年二~三回発生し幼虫で越冬する。毬に卵を産み付け、幼虫が毬と果実を食害する。通常「虫ぐり」と呼ばれる果実がこれの被害果である。


表1-25 中山栗の歴史

表1-25 中山栗の歴史


表1-26 栗の栽培面積と単価

表1-26 栗の栽培面積と単価


表1-27 栗の生産量と輸入量

表1-27 栗の生産量と輸入量


図1-9 愛媛県及びJA伊予中山年次別栗生産量の推移

図1-9 愛媛県及びJA伊予中山年次別栗生産量の推移