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中山町誌

一、 稲作栽培と技術開発・機械の進歩

 縄文時代の晩期には、水稲栽培による稲作が開始されたことを実証する遺跡が各地で報告されている。
 中山町においては、行基にまつわる伝承から、奈良朝初期には水田耕作が行われていたと推測する説もある。
 明治時代における稲作については、強制指導であった。現在のような正条植耕作になるには、今では信じられないような官公庁の指導と強制があった。
 日露戦争後、それまでの田面粗放ばら播きから、幅四尺の短冊形苗代に改めさせることになり、更改の有無を役場に届出させた。各地区に推進委員を設けて協力させると共に、実行していない苗代には強制的に踏み込み、足で四尺おきに溝を作ったりした。さらに駐在警察官も田植時期には各地を見回り、不正条植をするものには、厳しく干渉したものである。官憲万能の時代調が農業技術の改良面にも表われていて、興味深い一事でもある。

 農業技術の発達
 本町における水稲の反当収量の推移をみると、次表に示すとおり、明治と現在では三倍近い収量を挙げている点が注目される。この原因は、品種の改良・肥料農薬の進歩・耕種技術の発展等が考えられる。
 品種改良についてみると、耐病性品種として、昭和一七年頃から「農林二二号」が、今日では「日本晴」「秋田こまち」「コシヒカリ」等へと移行している。
 農薬による防除の歴史は比較的新しく、「イモチ病」に銅剤(ボルドー液)から水銀剤へ、虫害防除については「ホリドール」の出現となった。
 現在では、DL粉剤・粒剤化か普及している。
 苗代についてみると、水苗代の「フミワケ」播きであったものが、大正一〇年頃から短冊播き苗代となり、昭和一五年頃には、折衷苗代へと進み、昭和二五年頃から寒冷地早植の対策として油紙被覆苗代(水田温床紙)・ビニールポリエチレンによる健苗育成へと変わり、昭和五〇年代には、箱育苗へと変わった。
 次に田植の方法であるが、昭和の初期に、それまでの竹定規が仮定規となり、昭和三〇年頃になると、巻取式の縄定規がこれにとって変わり、最近では省力化から機械植へと変わったのである。なお、水稲に対する化学肥料の施用は、昭和初期からのようである。

 水稲の機械化
 脱穀では、昭和初期までほとんど千歯こぎが使われていたがその後、足踏脱穀機となり、昭和二五年頃から、動力利用の自動脱穀機へと進み、現在では、バインダー・コンバインへと進んでいる。
 調整については、粘土の中に樫の木を刃として練り込み、周囲を竹で編んで囲った原始的な斗うすから改良斗うすとなり、昭和一〇年頃から水冷発動機を使用した籾摺機が利用され始めた。その当時は、調整業者が賃摺りで各農家を回っていた。
 発動機も重量が大きく精度の低い低速四衝程であったが、昭和二五年頃から、小型軽量で中速ないし高速と進歩し、ディーゼルまたは、空冷エンジンニ衝程となり、現在では、ハーベスターへと急速に進歩してきた。
 耕起・代がきについても、昭和初期までは、耕起は人力、代がきは牛を利用する程度であったが、牛の飼育数増加に伴い、犂・馬鍬による牛耕が主体となった。昭和二七年頃から、ティラー耕耘機が急速に伸び、昭和五〇年代には、トラクターへと進歩したのである。
 農業機械化の進歩と同時に基盤整備等も進み、省力化栽培が容易となった。
 以上のとおり、特に水稲を中心に技術進歩と機械化が進んできたが、他の作目も同様である。

水稲反当収量の推移

水稲反当収量の推移


図1-6 べた播き苗代・短冊播き苗代

図1-6 べた播き苗代・短冊播き苗代


図1-7 櫛型定規による田植

図1-7 櫛型定規による田植


図1-8 土臼

図1-8 土臼