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中山町誌

三、 農地改革とその前後

 「稼いでも、稼いでも、いっこうに暮しは楽にならない」と言う農民の切実な言葉は、一体何に起因したのであろうか。
 その過半は、我が国の農業が資牛王義以前の零細家族経営によって営まれ、高率な現物小作料を主としていたことが原因となっていたことは否めない。
 昭和二〇年一二月九日、連合軍総司令部(GHQ)から農地改革の指令が発せられ、「日本農民を数世紀に及ぶ封建的抑圧の下においてきた経済的束縛を破壊するため、日本の土地を耕作する者が彼等の労働の果実を享受する平等な機会を持つことを保護するような措置をとること」を命令された。
 第一次改革は、昭和二〇年一二月に議会を通過した農地調整法改正法によって着手されたが、これでは、不徹底という理由でGHQより拒否され、このため翌二一年六月に農地調整法再改正法と自作農創設特別措置法が議会を通過し、第二次改革が行われた。
 その第一要点は自作農創設を徹底的に行い、不在地主の貸付け地全部と、在村地主の貸付け地のうち全国平均一ヘクタールの保有地を除いた全貸付け地を、強制的に政府に買収し、これらを従来の小作農家に売渡して自作地とする。第二は、残りの小作地の耕作権を一層強化し小作料を金納とする。その際、今までの物納小作料額は、米一石七五円といった価格で換算するという金納制度に転換したのであった。
 中山町では、村外地主の貸付け地及び神社、寺院等の所有農地は全部解放され、在村地主の貸付けについては七〇アールに限り保有を認められ、他は小作者に解放された。
 この農地改革を実行するため、公選の農地委員会が設けられ第一回の委員は、昭和二一年一二月二〇日次のような階層によって選出された。
 一号委員(通称小作層委員)定員五名耕作ノ業務ヲ営ム者ニシテ農地ヲ所有セザルモノ又ハ耕作ノ業務ヲ営ム農地ノ面積ガ其ノ所有スル農地ノ面積ノ二倍ヲ超ユルモノ
 二号委員(通称地主層委員)定員三名農地ノ所有者ニシテ其ノ所有スル農地ノ面積ガ耕作ノ業務ヲ営ム農地ノ面積ノ二倍ヲ超ユルモノ
 三号委員(通称自作層委員)定員二名
作ノ業務ヲ営ミ且ツ農地ヲ所有スル者ニシテ前二号ニ該当セザルモノ
 第二回の農地委員は、昭和二四年八月一八日次のような階層によって選出された。
 一号委員(通称小作層委員)定員二名
北海道二在リテハ五段歩、道府県二在リテハ二段歩ヲ超ユル面積ノ小作地二付耕作ノ業務ヲ営ム者
 二号委員(通称地主層委員)定員二名前号二掲ゲル面積ヲ超ユル面積ノ小作地ヲ有スル者
 三号委員(通称自作層委員)定員六名耕作ノ業務ヲ営ム者又ハ農地ヲ所有スル者ニシテ前二号二該当セザルモノ

 昭和二一年から買収に着手し、買収された農地等は、原則として現耕作者に売販されたものである。
 その実績は次表のとおりである。
 以上のように、農地改革によって小作農が自作農化され、貸付け地の保有が制限されると共に、小作料も定額金納制に統制されて、農民の地位の安定と向上が図られたが、農地改革は単なる所有権の均分化、零細化であったに過ぎず、経済規模の拡大は依然として不問に付されていた。そのため農家の経営規模は、平均五八アールと零細であり、経済基盤は農地改革前と変わらず弱体であった。
 このことが後述する新しい農政への芽生え(新農村建設事業→構造改善)をはらんでいたということができる。
 ただし、中堅以上の自作農家の大部分は山林所有者であり、戦後の山林ブームによって比較的堅実な経営を樹立していった。
 以上は既耕地についてであるが、戦後在外引揚げ者、帰還軍人、都市における失業者等が急増したので、政府は、これらの人々の処理問題とまた窮乏化した食糧問題の応急策として、土地の造成に乗り出し、山林を開墾して帰農を奨励すると共に、急増した農村の二、三男に増反を勧め、食糧増産に拍車をかけた。
 そこで本町にも四つの開拓帰農組合が設立されたが、これら入植者は、いずれも立地条件良好とはいえず、かんきつ園に切り替えて相当の収益が期待される赤海組合を除き、他の三組合の組合員は次第に離農し、現在では一部の残存入植者が自立経営に向かって努力しているに過ぎない。

第一回農地委員

第一回農地委員


第二回農地委員

第二回農地委員


表1-6 買収農地実績

表1-6 買収農地実績


表1-7 開拓組合の概況

表1-7 開拓組合の概況


表1-8 未懇地買収面積

表1-8 未懇地買収面積