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中山町誌

二、 土地改良事業の胎動

 河川あるいは溜池を用水源とする灌漑事業は、徳川時代の初期(一六〇〇)より小規模ながら自己労力によって行われていたようだが、ほとんどは自然に流下する河川に逆うことなく導水する方法であった。
 堤防を強化し、灌漑工事によって河川からの取水を一般化し、埋立工事や湿田の改良によって耕地を拡張し始めたのは、全国的に幕末期からであったようである。
 元来、土地改良事業は河川の氾濫状態、灌漑排水の過不足状態、農作業に不適当な状態を改良するためになされたものであるが、徳川期までの特徴は、区画整理であっても自己の耕作地に対し個人が行うものであった。
 明治に入ってから、在村の有力者の指導のもとに数人が集まって、協同的に行うようになり、この集団的事業が明治中期より主流となった。
 当時は水さえあれば開田し、地域を流れる小さな川敷まで耕地化されたため一方では水害の危険も増大した。
 明治三二年(一八九九)田区改正、畦畔改良、区画整理に重点を置いた、いわゆる土地改良史上、画期的な「耕地整理法案」が成立し、其の後、水田耕作の実態に添う必要から、明治三八年及び明治四二年に灌漑排水事業を中心とする耕地整理法にと改正された。
 集団事業の先駆的事例として、長沢地区の耕地整備工事をあげることが出来る。
 この事業は大正八年一二月、奥田源一郎が組合を結成し、率先その局に当たって、美田六ヘクタールを改良し、本町における耕地整理発達の先鞭をつけた。
 上長沢に建立されている記念碑には奥田源一郎の功績を次のとおり讃えている。

 「組合長奥田源一郎氏ハ資性温厚公共ノ心深ク夙二地方ノ開発二思ヲ致シソノ敬虔ナル信仰心ハ郷党ヲ美化シ崇高ナル慈悲心ハ恵マレザル人々ノ救済トナリ其ノ功績タルヤ極メテ多シ。
 殊二大正八年一二月起工ノ当眺地整理二於テハ幾多ノ難関ヲ排シテ遂に組合ヲ作リ、率先其ノ局二当リテ方二美田約六町歩ヲ得タルナリ実二氏ノ精神的物質的努カノ賜卜言フベク特二記念シテ之ヲ永遠二記念ス
 昭和二年四月建立」
 以下第三章六編土木建設参照。