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中山町誌

三、 地租改正

 年貢を納めている農民にとっても、それを収納する政府にとっても、地租改正は重大な問題であった。
 商品経済の渦中にあって、しかも富国強兵を指向する政府にとっては、旧来のままの実納年貢では、到底その財政を安定させることが出来ないのである。
 年貢を地租と改め、年貢米を農家自身に販売させ公定代価に換算した金納化へと転換を図ったが、農民の多くは、その日暮らしにも困る状態で、かえって苦しむ結果となった。
 定められた納期までに、売買し換金するための市場等も確保されず買い手もなく、結果は買い叩かれ、米価は公定価格を大きく下廻り、地租の納入が出来ない農家が多く、農民から反対の声が上がった。
 そこで政府は妥協的に金納、米納を併用することを認めた。
 明治八年から地租を完全に金納に切り替えるため、これまでの田畑の等級を収穫高表示から地価に改めた。
 大洲藩時代は、六尺三寸をもって一間としていたのを、丈量の際六尺を一間としたため、数字の上では田畑の面積が増加した。また地価の算定は田畑よりの収益と、それまでの貢租負担をかみ合わせた上で、これまでの貢租負担が地価の一〇〇分の三に当たることを主眼に決定されたものであり、税の増加となった。
 しかし、これは農民の要求とは合致しない点はあっても、地主と小作人との、土地所有関係を明確にする意味では大きな意義をもつ地租改正といえる。
 田畑の地租改正についで、山林の所有権と面積も定められた。