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中山町誌

第七節 在郷軍人会・兵事会・銃後奉公会

 在郷軍人会は、予備役・後備役の将校・下士官・兵・帰休兵・及び陸軍の補充兵等応召義務者で構成する団体で、明治四〇年(一九〇七)に、出渕・中山村が合併して中山村在郷軍人会を設立、佐礼谷村は明治四二年設立された。明治四三年一二月には、「帝国在郷軍人松山支会中山村分会」と改称した。当時会員は二一七名(中山村)であった。
 現役を終えた後、予備役、後備役の在役期間は、戦争や、事変に際しては、「赤紙」による召集、平時にあっては、演習召集・簡閲点呼に出頭しなければならなかった。特に各地の簡閲点呼においては、連隊司令官によって健康状態の検査・軍事教練が行われた。
 これは、国民全体を軍事化する制度であり、一朝有事に際し、国防の予備軍団とするものであった。
 兵事会は、有事の日に当たり郷党互いに救援し、出征者か後顧の憂いをなくすることを目的に、明治一七年県下各市町村に設けられた「兵事集談会」がはじめであるが、同二二年改正して、「兵事会」を各郡市に組織し、同三六年規則改正し、軍事思想の涵養に努めた。日露開戦後、軍人・遺家族の扶助・生業・授産及び歓送迎等内容を充実させた。
 中山地方では、郡単位の兵事会より、各町村に支部が置かれ、出渕村・中山村・佐礼谷村共に明治三一年兵事支会が創設されている。昭和一四年三月一〇日(旧陸軍記念日)、兵事支会は解散し、出征軍人遺家族後援会と共に、新しく銃後奉公会として再編設立された。
 銃後奉公会―本県においても、日中戦争の重大さに鑑み、昭和一四年二月一七日付で「銃後奉公会の設立に関する件」を市長村長宛て通知している。

 「 銃後奉公会ノ設立ニ関スル件依命通牒
 市町村ニ於ケル軍事援護機構ヲ整備強化シ益々銃後奉公ノ実ヲ挙クルハ刻下喫緊ノ要務タルニ鑑ミ、政府ニ於テハ一月十四日別記ノ通厚生、内務、陸軍及海軍ノ四大臣名ヲ以テ訓令ヲ発シ、同時ニ各次官ノ命通牒ヲ以テ事変発生以来遍ク市町村ニ普及シタル軍事援護団体ヲ整備統一シ、国民皆兵ノ本義ト隣保相抉ノ道義ヲ基調トスル挙郷一致ノ単一団体タル銃後奉公会ヲ設立シ、恩賜財団軍人援護会及同支部トモ連繋ヲ保チ平時戦時ヲ通ジ存続発展セシムベク之ガ設置要綱ヲ明示セラレ候ニ付テハ、本県ニ於テモ政府ノ旨ヲ体シ左記ニ依リ全市町村一斉ニ結成セシムルノ方針ニ有之、而シテ之ガ詳細ハ追テ指不可相成モ予メ地方ノ実情ニ応ジ機宣ノ指置ヲ講ジ之ガ設置二支障ナキ様十分ニ配慮セラレ度
       記
  一、銃後奉公会ニ統合スル援護団体ノ範囲及統合ノ時期銃後後援ヲ目的トスル団体ハ事変前ヨリ設定セラレタルモノタルト事変後ニ設立セラレタルモノナルトヲ問ハズ三月三十一日ヲ期シ之ヲ解散シ銃後奉公会に統合セシムルコト  (以下省略) 」

 以上の通知に基づいて、旧佐礼谷村でも昭和一四年三月一〇日、佐礼谷兵事支会及び佐礼谷村出征軍人遺家族後援会を統合して、佐礼谷村銃後奉公会を結成している。当時の「佐礼谷村報」では次のように報じている。

 佐礼谷村銃後奉公会結成
 三月十日陸軍記念日を卜して県下一斉に銃後奉公会設立さるゝことになり、本村と致しましては兵事支会役員会に続いて総合委員会を開催し、出征軍人遺家族後援会会計決算認定の件、出征軍人遺家族後援会を銃後奉公会に統合し其の会計も共に移すの件を附議致しました處異議なく、続いて佐礼谷村銃後奉公会結成に関する協議を進めました處異議なく可決され、佐礼谷村銃後奉公会会則制定の件、及昭和十四年度銃後奉行会予算の件を附議決定されました。役員は会則により村長が会長になり、副会長は会長より助役及小学校長を推せんしたき旨報告あり全員異議なく承認あり、評議員は部落代表者、方面委員其の他適当な者の中より後日会長之れを委嘱することを述べ異議なく会議を閉じました。続いて結成式に移り一同起立裡に別記宣言を朗読し了って心計りの祝宴を催し散会致しました。

      宣   言
 国民皆兵ノ本義ヲ愈々闡明シ隣保相扶ノ精神ヲ昂揚シテ銃後奉公ノ完璧ヲ期スルハ平時戦時ヲ問ハズ国運伸張の要諦ニシテ軍事援護ノ根本精神亦茲二存ス我等銃後国民ハ此ノ根本精神ヲ堅持シテ銃後奉公会ヲ結成シ更二一段ノ熱誠ト努カヲ以テ挙郷一致銃後後援ノ強化持続ヲ図リ聖戦目的ノ達成二邁進センコトヲ期ス右宣言ス
  昭和十四年 三月十日
  佐礼谷村銃後奉公会(以上原文のまま)

 主な事業については、
一、兵役義務心の昂揚
二、隣保相抉の道義心の振作
三、兵役義務服行の準備
四、現役又は應召軍人、若しくは傷痍軍人並びに其の遺族家族の援護
五、労力奉仕其の他家業の援助
六、弔慰
七、慰問・慰籍
八、稿事
九、身上及び家事相談
一〇、軍事援護思想の普及徹底
一一、其の他必要な事業