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中山町誌

第六節 太平洋戦争と郷土

 昭和一六年(一九四一)一二月八日、日本軍はアメリカ太平洋艦隊の拠点であるハワイ真珠湾を奇襲し、太平洋戦争が始まった。米英両国に対し宣戦布告した日本軍は、マレー・シャム(タイ)・中華民国において大規模な作戦行動を開始した。一二月二五日香港占領、翌年一月二日マニラ、二月二五日シンガポール占領と緒戦において有利な地位を得た。
 郷土編成の諸部隊も各戦域ごとに、この戦争に従事した。第四〇師団は、咸寧・信陽・長沙・衝陽・桂林・広東・南昌など、中国大陸の広い範囲で戦闘行動を行った。
 第五五師団は、ビルマ(ミャンマー)方面の作戦に従事し、マンダレー・アキャブなどに転戦した。またその一部(南海支隊)は、グァム島・ラバウル・東部ニューギニア方面で作戦を展開した。
 歩兵第一二二連隊は比島(フィリピン諸島)に上陸し、開戦直後はバターン作戦に従事したが、その後南海第一支隊に改編されて、マーシャル諸島の守備についた。
 この他にも、独立歩兵第一五及び同第三三三大隊、歩兵第六二連隊、南洋第二及び同第六支隊、独立混成第四八旅団(旅団長・重松 潔少将)など県人の参加した部隊は多く、広い戦域に分かれて行動した。
 第二四師団の隷下となって、満州に駐留していた歩兵第二二連隊は、昭和一九年八月、師団と共に沖縄に移駐し、この地で米軍の上陸を迎えて玉砕の運命をたどった。
 戦争後期になると、中山町の男子は適齢者がほとんど出征していた。その一方で、死者の遺骨も何度となく送られてくるようになった。日中戦争当初は盛大に送られた出征兵も、秘密動員によって、召集令状の赤紙を受け取っても親類と隣近所くらいのほか、挨拶さえできず入隊して行った。
 政府は、国民生活の統制・政策遂行の末端機関として、「となり(隣り)組」組織を強化した。勤労奉仕、国債割当、金属回収など戦争遂行に必要な行事が主体となり、防空訓練、竹槍訓練、防空壕掘りなども行われた。昭和一七年には、毎月八日を、大詔奉戴日(昭和一七年一月二日内閣告諭)と定め、同年一月八日から始められた。これは、戦争遂行のため「必勝国民士気昂揚」に重点を置き、官公庁・学校・会社工場では、詔書奉読式を行い、神社、寺院においては必勝祈願を行った。
 国内各地で飛行場の建設が始まり、中山地方からは、吉田浜・横河原の飛行場建設現場へ多数の人々が勤労奉仕として徴用動員された。
 また、学童による飛行機などの燃料にするための「どんぐり」拾いや、学校の運動場を開墾して、甘藷作りを行い、食糧増産に努めた。
 甘藷栽培については、県において各関係機関へ次のような通知を発している。

   甘藷倍加大増産実施に関する件(昭一九・二・四)
        「県通牒綴」(今治北高校蔵)
 社第二二三号
 昭和一九年二月四日
            愛媛県内政部長
 支庁長殿 地方事務所長殿 市町村長殿
 中等学校長 公私青年学校長殿 国民学校長殿
    甘藷倍加大増産実施ニ関スル件
 食糧増産ハ刻下急務中ノ急務ナルニ鑑ミ之ガ対策トシテ来ルベキ甘藷栽培ニ於テ本県トシテハ昨年度ノ二倍増産ヲ期シ茲ニ挙県一致之が目標額達成ニアラユル努力ヲ結集シ之ガ成果ヲ期スルコトニ相成候ニ付テハ、左記事項参照ノ上一校残ラズ予定以上ノ増産ヲナスハモトヨリ本運動ノ趣旨徹底ニ遺憾ナキヲ期セラレ度
      記
一、各学校二於ケル栽培段別
 一段歩以上之ニハ校庭、校地並ニ校下ノ空地利用開墾ニヨルモノヲ当テル、尚コノ以外二実習地農園ニ対シテハ甘藷ノ栽培ヲ極カナスコト

ニ、学校育苗園
 全県下一戸当六株以上全戸二於テ宅地垣根ヲ利用植付ニ対シ之ニ要スル育苗ハ各校ニ於テ育苗シ学童生徒ヲ通ジテ配布スルコト之ニ要スル種藷ハ原則トシテ地元町村ヲ通ジテ配給スル筈ニ付キ連絡スルコト

三、甘藷皆作空地撲滅運動
 甘藷倍加大増産ノ主趣ヲ体シ之ガ目的達成ノタメ学童生徒ヲ通ジテ甘藷皆作地僕滅ヲ県民運動トシテ推進セラレ度

四、以上ニ依リ直接増産ノ一肋トナス外甘藷増産ノ熱意ヲ盛り上ラシムル一面植付ニ対シ勤労奉仕ヲナスト共ニ学童生徒ヲ通ジ技術的改善事項ノ惨透ニ努ムルコト(『愛媛県史 資料編近代四』より)

 隣組では、松根掘りが老若男女の勤労奉仕で行われ、漆口には松根油採取工場が建設された。
 緒戦において大戦果を挙げた日本であったが、昭和一七年(一九四二)八月ガダルカナル反攻に遭い、翌年五月アッツ島が奪回せられ、サイパン、テニヤン、グアム島の失陥と、米英の反攻の前に戦局の様相は一変した。新鋭機によって制空権は完全に連合軍の手に落ちた。比島、沖縄、硫黄島へと反攻され、一層日本は苦境に陥り、とうとう日本本土爆撃が始まった。
 本土爆撃に対し、昭和一九年六月学童疎開要綱が決定され、国民学校の学童疎開が始まった。本町には、大阪・神戸方面からの縁故疎開による児童が各学年二、三人程度編入された。
 昭和一九年七月サイパン島が陥落してからは、日本本土の防衛計画を真剣に考えなければならない事態になった。その後相つぐ防衛圏の島々の失陥によって、本土決戦の構想が打ち出され、そのための兵備計画が次々と立てられた。四国にもその防衛を担当する第五五軍が置かれることになり、まず満州にあった第一一師団(兵団符号:錦)を再び呼び戻し、これを高知市の周辺に配備した。続いて新編成の兵団が次々に誕生し、高知市の東に第一五五師団(兵団符号:護土、また同県の西部に第三四四師団(兵団符号:剣山)が配備されて、海岸線の上陸防御に任じた。さらに一一師団の後方高地には、上陸点に攻勢を掛ける打撃師団として第二〇五師団(兵団符号:安芸)が置かれ、徳島県には独立混成第一二一旅団(兵団符号:菊水)が配備された。
 この時の編成概要は次のとおりである。(図表 編成概要 参照)

 B29が松山付近で撒いた宣伝ビラ(裏)
  蘇聯の対日戦参加は日本国民にとって日本が遂に全世界の陸軍を相手に絶望的抗戦を余儀なく継続しなければならぬ羽目に陥ったことを意味する。
  露西亜を一挙に席巻せんとしたあの精鋭を誇りし独逸軍及び其の猪突的進攻作戦の首魁者たる彼の軍国主義者ヒットラーの末路は諸君の良く知る処であろう。即ち東部戦線に在りし全独逸軍も西亜東欧の豪、蘇聯の反攻に際会して結局はせん滅の憂目に会ったと云ふ事も諸君の脳裏に深く刻み込まれた事実である筈だ。
  苫戦敢闘数年、遂に独軍定覇の偉業を確立した蘇聯軍も欧州戦の終えんに伴ひ現在迄遙かに戦前に優る数的、質的陸軍武容を回復充実し遂に対日聯合戦線に一役買って出たのである。
  聯合国の全面的日本進攻作戦を目前に控えそれに伴ふ日本の必然的なる徹底的壊滅を前に日本国民の採るべき途~
  即ち美しき祖国日本を惨たんたる戦禍より未然に救ふ唯一の途が何であるかと云ふことも諸君は良く知って居る筈だ!

 また、この本土決戦の国内態勢を強化するために、「軍事特別措置法」「義勇兵役法」「戦時特別措置法」などが次々に制定された。戦争末期になると、召集された兵士には未教育や高齢の人が多く、加えて兵器や装備も充足せず、陣地構築・練度の向上ともに満足すべき域には達しなかった。
 昭和二〇年(一九四五)二月マニラが奪回され、同年三月硫黄島が陥落し、本土空襲は日増しに激しくなった。同年三月米軍機は、初めて愛媛県を襲い爆弾を所々に投下したが、人畜に損害はなかった。この頃より中山町の上空を連日B29が通過し、艦載機が飛ぶようになり、高い所の畑などで農作業をしていると機銃掃射を受けることもあった。
 昭和二〇年四月三日、米軍機が佐礼谷村に墜落、塔乗兵は、捕虜になるという事件が起きた。
 昭和二〇年六月、沖縄が占領され戦局もいよいよ終末へ近づいた。そして、七月二六日午後九時松山市が空襲で焼かれ、町民は真赤に焼けた北の空と爆音に不安な一夜を明かした。八月六日広島に、八月九日長崎に原子爆弾が投下され、八日には、ソ連が日本に宣戦布告した。
 ここに至って、日本は八月一五日天皇自らの、ラジオ放送によって終戦の詔勅が下った。

第55軍 (高知)

第55軍 (高知)