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中山町誌

第三節 消防 ①

 我が国の消防がいつ頃から始まったかあまり明確ではないが、平安朝時代に宮殿を防火する役目の「禁裡火消」が設置されたという記録が残っている。
 江戸時代に入り、三代将軍家光の時代の慶安元年(一六四八)に火災予防に関する町触が出されており、また、元和七年(一六二一)に火消役が設置されている。これが現在の消防の源であるともいえるが、その組織の起源は寛永六年(一六二九)幕府が大名に火の番を命じた大名火消であるといわれている。
 幕府は、慶安二年(一六四九)の火災を機にさらに消防を強化するため二組の消防隊を組織した。これが、後に町火消とともに消防隊の中心となる定火消である。しかしこれらの火消は、江戸城及び侍屋敷の消火と警戒に当たるのみに過ぎなかった。
 そこで、幕府は五人組等に火の用心や初期消火活動を行わせたが、効果がなかったので、町民が共同して町内から強壮な壮丁を選んで防火に備えた。この組織を店火消といい我が国自治的消防機関の最初である。しかし、これも十分な消火活動ができなかったため、享保五年(一七二〇)、時の将軍吉宗がこれらを改組させて設けたのが町火消「いろは四七組」である。
 しかし、この組織装備は現在の消防に比べると消火器も未整備で、延焼を防ぐ破壊消防が主であった。また町火消は町奉行の監督下にあったが、純然たる自治的組織であり、経費の一切が町の負担で、その費用はほとんど器具設備等の購入に費され、組員は無報酬であった。
 明治三年(一八七〇)、東京府は消防局を設置し、町火消を消防組に改組し、「いろは四七組」中一二組が廃止され三五組となった。明治四年司法省警保寮が設置されると、消防事務は警保寮に移され、翌五年四月「いろは四七組」は廃止され何大組何番組と称されるようになった。明治六年消防事務は内務省に移管され、東京府下の消防については、翌七年に新設された東京警視庁が市内六大区に警視庁出張所を設けたので、消防組はこれに分属した。東京以外の地方では、火災や水害等を目の前に見て町の有力者を中心に消防組、消火組等が相次いで結成された。明治二七年、政府は消防組の育成を図るため、府県知事の管掌としての「消防組規則」を制定し、消防組の全国的な統一を図った。
 昭和一二年(一九三七)には「防空法」が制定され、国防体制の整備が急がれるようになり、内務省は、消防組と防護団の両者を発展的に解消して新しく強力な警防組織を設けるため、昭和一四年一月勅令「警防団令」を公布、消防組と民間防空団体が合体して、新たに警防団として全国一斉に発足した。
 第二次世界大戦の終結とともに、警防団はその戦時的任務を終了し、昭和二二年四月三〇日に消防団令が公布されるとともに消防団令の附則で警防団令が廃止された。これにより、今までの警防団は廃止され、新たに全国の市町村に自主的民主的な消防団が組織された。
 昭和二三年三月二四日政令第五九号をもって新たな消防団令が公布され、消防団は任意設置制となり、消防団に対する指揮監督権は警察部長又は警察署長から市町村長、消防長及び消防署長に移された。

 旧中山地区の消防組  
 旧中山地区の消防組創立以前の防火に対する知識は幼稚であり、当時鳴吐水が二台あったほかは、中産以上の商家で弗々水遺鉄砲と称する消火器を所有した程度であった。
 明治三四年(一九〇一)一月、本町の商人山本仁三郎・津田勘三郎が商用で大阪に滞在中たまたま大火に遭い、消防ポンプの威力を見聞し、その必要性を痛感、二号ポンプ(腕用ポンプ)二台とその附属品を三〇〇円で購入して帰村した。そして、泉町区の有志と消防組の組織について協議し、ポンプ代金の寄付を集めてこれを購入し、泉町の青壮年をもって六〇名の組員を選任し、いろの二組制による泉町消防組の誕生をみた(組頭島田安三郎・河野勝五郎)。
 明治四四年五月一日、公設消防組としての認定を受け、従来の組織を変更して組頭(島田安三郎)を一名とし、六名の小頭(内一名副組頭)と消防手六〇名とし、役員の寄付により制服(法被)を初めて調製した。また、大正二年五月寄付を募り、前記ポンプ二台を新規と交換調製しその面目を一新した。
 大正三年(一九一四)一一月五日、名称を中山村消防組と改称し、村費をもってその運営をすることとなり、組員数六七名で一段と充実をみた。大正六年七月従来の組制に改め、第一部(泉町一・二・三、東町の北部)第二部(泉町四・豊岡・東町の南部)とし組頭(大森寅次郎)一名、部長二名、小頭六名、部員八〇名、計八九名の編成とした。
 大正一四年、町制施行に伴い中山町消防組と改称、部門を拡張し、従来の第一部、第二部のほか第三部(永木、福住、梅原)四一名、第四部(野中、大矢、影の浦)三四名を加え、さらに優勝号ポンプ二台及び付属品を新調して第一・第二部に配し、旧ポンプを第三・第四部にそれぞれ配備した。
 昭和一四年(一九三九)、警防団令により名称を中山町警防団と改称、部制を分団制とした。
 昭和二三年消防組織法の施行により自治消防となった。昭和二七年には初めて手引動力ポンプ一台を、寄附と国の補助により購人し、二〇名の団員をもって第五分団(ポンプ班)を新設した。その後可搬動力ポンプが普及したので、消防力の近代化を図るため、昭和二八年これを二台購入した。

 旧佐礼谷村消防組
 大正二年(一九一三)一二月九日、愛媛県令第三九号で消防組施行規則が改正され、市町村に消防組を設置しようとするときは市町村会の議決を経て知事に申請すべき旨布達された。大正九年旧佐礼谷村役場の一部焼失を機に、当時の役場職員宮田喜市、金岡駒猿らが有志と協議した結果、青年を中心に消防組を創設することになり佐礼谷村議会では大正一四年三月二三日にその設置を議決した。
 大正一五年(一九二六)一月三〇日、消防組の設置許可を申請、同年三月二四日訓第九六号で愛媛県知事 香坂昌康の設置許可指令を受けた。その概容は次のとおりである。
 一、消防組の名称 伊豫郡佐禮谷村消防組
 二、設置の区域 佐禮谷村一円
 三、組員数 四五名(組頭一名、小頭四名、消防手四〇名)
 消防組創設と同時に村費をもって三号腕用ポンプ一台を購入し坪之内部落へ配備した。
 昭和三年(一九二八)一一月八日、組織変更の許可を申請、同四年四月八日付訓令第八二号により次のとおり変更許可指令を受けた。
 一、消防組の名称 佐禮谷村消防組
 二、設置の区域 佐禮谷村一円
  第一部 佐禮谷村竹之内区、日浦区、影浦区、障子ヶ谷区、坪ノ内区、村中区
  第二部 同村中替地区、安別当区、梅ノ木区、平岡区
 三、組員数 九二名 内、組頭 一名
  第一部 部長一名、小頭五名、消防手四〇名
  第二部 部長一名、小頭四名、消防手四〇名
 この時三号腕用ポンプ一台を追加し、また、各部落間の交通不便のため、五号ポンプ(小型腕用)を寄附を募って購入して、各部落に配備し消火態勢の万全を期した。
 昭和五年(一九三〇)度に貯水池四箇、同六年度に二箇、同七年度に四箇、同八年度に二箇を設置した。
 その他、既往の個人設置の貯水池を合わせれば、その数一二八箇となる。
 昭和八年七月二〇日村内、竹ノ内に警鐘台を経費一二○円を投じて設置した。その経費のほとんどは、竹ノ内出身者、下岡與利藏の寄付によるものである。
 昭和九年一月村役場にサイレンを設置し、遠隔部落に対する時報及び非常警報に備えた。
 当時の警鐘台は、四箇所、サイレンは一箇所である。
 昭和一〇年八月二五日警鐘台兼サイレンの位置を拝鷹山頂に移転した。
 昭和一四年四月一日、警防団令により消防組を改組して佐礼谷警防団を組織した。部制を分団制とし各役員は従来の消防役員を、団員は消防組員をもってこれに充て、同日結成式を挙行した。この時の団員数は団長以下幹部一四名、団員八〇名である。
 昭和一四年一〇月三一日、総裁宮殿下より令旨奉戴、同日内務大臣木戸幸一から団旗を授与された。
    表彰授与歴
一、昭和五年六月一〇日  金馬簾授与
        規律訓練優秀なるによる。
一、昭和八年三月一二日  金馬簾授与
        水利施設優秀なるによる。
一、昭和九年五月三一日  表彰及び金馬簾授与
        六ヶ年無火災による。
一、昭和一四年一月二八日 表彰及び金馬簾授与
        一〇ヶ年無火災による。
一、昭和一七年一〇月三日 警防団第一回表彰授与
        規律訓練優秀による。

 新町発足後の消防団
 昭和三〇年(一九五五)、中山町との合併に伴い、旧佐礼谷村の二ヶ分団をそれぞれ第五、第六分団とし、旧中山町の第五分団(ポンプ班)を第七分団とした。
 この当時の団員数は次表のとおりである。
 新町発足後の歴代中山町消防団長と現在の消防団の組織を示すと表7-10・7-11のとおりである。
 表7―12の各分団の編成区域と表7―13の消防団員定数は、中山町消防団の組織に関する規則に基づくものである。
 新町発足後消防ポンプの動力化に伴い消防機能は急速に高まってきた。各分団へ配備している消防機械の最近の現況を示すと表7―14のとおりである。

表7-9 合併当初の分団編成表

表7-9 合併当初の分団編成表


表7-10 歴代中山町消防団長

表7-10 歴代中山町消防団長


表7-11 消防団の組織

表7-11 消防団の組織


表7-12 分団名と編成区域

表7-12 分団名と編成区域


表7-13 消防団定員数及び現員数

表7-13 消防団定員数及び現員数


表7-14 消防機械現況

表7-14 消防機械現況