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中山町誌

第一節 警察行政の沿革と駐在所・派出所等の変遷

 江戸幕府の警察機関には、老中・若年寄・寺社奉行・勘定奉行があり、その執行機関として大目付・目付・町奉行・与力・同心・火付盗賊改などが置かれた。このうち直接民衆を対象に警察業務を執行していたのが与力・同心等である。
 また地方の幕府直轄領には、所司代・奉行・郡代・代官などを置き、警察の仕事をするほか、自治体の自治警察機関として五人組制度を設けていた。
 各藩では、評定奉行が警察行務を司り、犯罪の捜査などは御小人や目明しに当らせていた。
 明治三年(一八七〇)二月に、捕亡吏が置かれるようになり、その名称が邏卒と改められたのは明治六年の初めである。しかし東京府では明治五年当時、補亡吏の異名として邏卒を使っており、各府県によってまちまちで、必ずしも明確に統一されてはいなかったようである。
 わが国の警察は、明治二年には軍務省の指揮下にあったが明治五年に司法省所管となり、さらに明治六年内務省に移管され、司法警察から行政警察へ転換した。
 明治八年一〇月二四日、太政官通達第一五八号で、各府県に一等から六等までの警部の官を置き、さらに同日太政官達第一八二号で、邏卒の名称を改めて一等から四等までの巡査の職を置くこととなった。
 愛媛県では、明治八年八月に邏卒の活動拠点である屯所の設置の整備を完了したが、屯所には本屯、支屯の区別を設け、本屯は各大区ごとに一箇所ずつ合計一四箇所、本屯の下には支屯合計八五箇所を置いた。このとき、中山村には郡中に本屯のある第八大区のうち第四支屯が置かれていた。邏卒の配置人員は支屯の大部分が一人詰で、現在の駐在所のようなものであった。明治八年一〇月、警部・巡査の誕生によって警察官の職制はようやく統一され、これに伴い従来の本屯を屯所、支屯を分屯所とそれぞれ改称してそのまま付置し、管轄に従って派出警部がこれを指揮監督することとした。さらに明治九年一月二〇日付の通達(県達坤第一五号)によって、各屯所ごとの巡査の階級別配置人員を次のとおり定めた。(図表 第八大区のみ抜粋掲載 参照)
 明治一〇年一月二六日内務省達乙第五号に基き、二月二二日付で各警察出張所を「警察署」と改称するとともに、旧屯所、分屯所の統廃合を行って「警察分署」を設置した。
 愛媛県初の警察署は、西条・今治・松山・大洲・宇和島の五警察署であるが、この時の中山分署は松山警察署の所管内にあった。
 明治一一年四月の第二回特設県会に、第四課から巡査の緊急増員を求める議案が提出され、定員五〇〇余人に対して約二〇%の大幅な増員が認められた。これに基づいて、同年一一月一日巡査の配置及び分署の区画改正が全県的に実施され、同時に分署の下に交番所が新設された。この時点で大洲警察署の下に内子分署が、中山村に交番所が置かれている。
 大小区の廃止と郡区改正に伴って、明治一一年一二月二七日、「警察本分署交番所位置所轄区域巡査配置方」が全面的に改正された。数字的には、従来に比べて若干の改正が行われた程度であったが、警察管轄区域では従来の大区境界制を郡境界制に改め、西条・今治両警察署を除いた他署の管轄区域は、大幅に分合が行われた。この分合により警察署と郡役所が対応しながら地方行政を執行する基礎が築かれたのである。このときの警察署・分署・交番所の位置・名称及び管轄区域並びに巡査の配置状況は次表のとおりである。(図表 大洲警察署管内 参照)
 明治一九年(一八八六)七月の地方官官制では、「一郡一署主義」を採用し、管内の地形その他警察上必要と認めるときは、知事の職権で適宜警察署の下に警察分署を設置できることとした。
 愛媛県では、この官制施行の直前、七警察署、四〇警 察分署が存在した。当時県内は三〇郡に区画されていたので、この官制によると当然三〇の警察署を置かなければならなくなり、一躍警察署数は四倍以上の増となる。しかし、そうすればいたずらに警察力を分断するのみで、民衆保護の完璧を期し難いとの判断から、内務大臣の決裁を受けて、当分の間二〇警察署の下に二一分署を置く妥協的な配置案を実施した。この結果、多くの分署が警察署に昇格し、川之江・小松・三津浜・久万・郡中・八幡浜及び卯之町の七警察署が新設された。この時の本町関係警察区画は次表のとおりである。(図表 警察区画 参照)
 明治二二年五月一日、従来の集中主義を改め分散主義を指向する警察制度への転換を目的として、従来の交番所を全廃して派出所・駐在所を新設した。この時中山村交番所は巡査派出所と改称され、郡中警察署の管轄となった。
 明治三〇年四月一日、郡制施行とともに郡区の改正が行われ、県内は一市一二郡となった。これに伴って警察署の新設移転が行われ、警察区画は一三警察署、一四警察分署となったが、伊予郡の所轄は郡中警察署と大南分署であった。明治三一年、中山村派出所は村落派出所の廃止に伴い巡査駐在所となり二人の巡査が駐在した。
 内務省は、明治三四年六月一四日に「巡査配置及勤務概則」を一部改正し、「巡査部長派出所」を創設した。しかし、愛媛県では「巡査配置及勤務概則」制定以前から駐在所に巡査部長を配置する制度が発生しており、明治三三年四月現在で、宮窪村・別子山村・川之江外一カ村・小田町村・中山村に配置されていた。これに伴って巡査部長派出所を中山村巡査駐在所と併置し、二人の巡査を一人とした。
 巡査部長派出所は、大正一五年(一九二六)七月一日現在県下一六箇所の主要地域に存在したが、中山町巡査部長派出所はその後も存置され、当時の受持区域は中山町・下灘村・上灘村・佐礼谷村となっている。
 愛媛県における大正初期の警察署・分署の数は、一四警察署、八分署であったが、大正二年八月八日、「警察署分署位置及区画」(県告示第三六五号)により、八分署のうち五分署が巡査部長派出所となってそれぞれの警察署に吸収され、一四警察署、三分署となった。伊予郡全体は郡中警察署が管轄している。
 その間出淵交番所は、明治三一年(一八九八)に名称を巡査駐在所に改めた。その後明治四〇年一月、中山、出淵両村の合併により出淵村巡査駐在所は廃止され、中山村巡査駐在所を二名とし、中山・出淵両地区を分担していたが、明治四三年二月一日、中山村出淵巡査駐在所の新設に伴い、二名の巡査のうち一名をここに駐在させた。しかし、その後これを廃止し再び合併当初の状態に統合整理された。
 現存の中山警察官駐在所は、昭和四五年(一九七〇)五月一日、県費により大字中山丑五一〇番地二に建築移転したが、老朽化のため平成三年二月四日同場所に新築されたものである。
 旧佐礼谷村では、明治八年(一八七五)六月頃佐礼谷村駐在所が日浦部落の久保田宏方前の田地に設置され、明治一四年頃坪之内小田宗男所有田地(元隔離病舎)附近へ移転した。その後、明治二二年頃現在の日浦、重藤鶴市方へ移り、さらに昭和二年(一九二七)春、佐礼谷村丙一〇七〇番地一(日浦)へ移転した。
 町村合併後は、昭和三七年、中山町警察官派出所と改称し、警察活動の機動性の増大と事故件数僅少の傾向により、昭和三八年四月一日同所は引き上げられたが、それまで巡査一名が駐在した。
 中山警察官駐在所新庁舎の概要及び、本町派出所、駐在所等勤務の歴代警察官を示すと左表のとおりである。

<庁舎の概要>
総面積     一五八・六〇平方メートル
 (内訳)
  ・事務所面積  三一・四七平方メートル
  ・居宅面積  一二四・七〇平方メートル(六二・三五平方メートル×2)
  ・屋外便所面積  二・四三平方メートル
総工費     一九、七九六千円(県費) 
                  資料:伊予警察署資料

 昭和二二年(一九四七)一二月八日、警察法が成立して市及び市街的町村に自治体警察が設置されることとなった。一方、国家地方警察の警察署は原則として一郡一署方針を取り、越智郡についてのみ陸地部と島嶼部に分けて設置することとなった。
 愛媛県では、県下六市自治体警察の廃止に伴い、昭和二九年(一九五四)六月三〇日に「愛媛県警察署の名称、位置及び管轄区域条例」を制定し、従前の国警一五地区署と六市七警察署を統廃合して一八警察署とした。
 以上のように、昭和二二年国家警察と市町村自治警察の二本立てで組織されたが、昭和二九年現行警察法が施行され、地方警察の組織は、都道府県警察に一元化された。そして従来所管していた消防・衛生・産業などに関する行政警察事務は、他の行政機関に移され今日に至っている。

伊予警察署の沿革
  <年月日>      <名称>
 明治一〇・ ニ・二二  松山警察署郡中分署
  〃一九・一二・ 一  郡中警察署
 昭和二三・ 一・二五  伊予地区警察署
  〃二九・ 七・ 一  郡中警察署
  〃三〇・ 一・ 一  伊予警察署
                   資料:伊予警察署資料

第八大区のみ抜粋掲載

第八大区のみ抜粋掲載


大洲警察署管内

大洲警察署管内


警察区画

警察区画


表7-1 中山町内歴代警察官 1

表7-1 中山町内歴代警察官 1


表7-1 中山町内歴代警察官 2

表7-1 中山町内歴代警察官 2