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中山町誌

第二節 中山町の保健衛生

 昭和三〇年二月一日町村合併以降本町は、公衆衛生を含む社会保障体制の促進強化、特に保健行政の進展と確立に伴い行政機構のうち従来の三課に加えて、三一年四月一日厚生課(課長島田稔)を新設した。これは国民健康保険町全域実施を機に、民生・衛生・保険を統合したものである。更に国民年金の開始とともにこれを加え、厚生行政の充実を図ったものである。
 昭和三四年婦人会員を結核予防対策委員に委嘱して、結核検診受診率向上に多大の成果をあげ、昭和三六年四月結核予防協会総裁表彰を受け、また、国民健康保険は優良モデル地区となり、昭和三七年五月厚生大臣表彰を受けた。昭和三九年一二月には、従来中止されていた衛生委員に替わる厚生協力委員を各部落ごと一名を委嘱した。
 国においては、昭和三五年「所得倍増計画」が閣議決定され、高度経済成長の時代となり、人口構造の変化に伴なって、疾病構造が変化し、結核中心から精神衛生・成人病対策・母子保健・環境衛生へと広がりをみた。市町村単位には、共同保健計画が策定され、健康な町づくりを目指した。昭和三六年児童福祉法が改正され、新生児訪問指導と三歳児検診が開始された。
 昭和五二年には、一歳半検診が始まり、同五三年に健康づくり対策の一環として保健センターの建設が促された。同年には国保保健婦は市町村に身分移管され、生涯を通じる健康づくりのための各種検診の強化と、健康自己責任論を啓蒙普及することなどが打ち出され、「自分の健康は自分で守り、つくる」を基本に地域に根ざした健康づくりが進められた。
 痴呆性老人対策等に取り組み従来の疾病対策から一歩進んで積極的な健康づくりへと発展し、各地域では健康まつりやイベントが催されるようになった。昭和六二年には、日本最初のエイズ患者が発見され死亡したことで大きな社会問題となり、保健所において匿名で検査が行われるようになった。昭和六三年には精神保健法による在宅生活を基盤とした地域保健活動の強化へと政策が図られ、精神障害者の社会復帰を援助するための相談指導や、デイケアが積極的に行われるようになった。
 本町では、昭和四八年(一九七三)までは保健婦又は看護婦によって受胎調節・予防接種・検診等を実施してきたが、四九年に保健婦一名看護婦一名となり脳卒中対策・結核対策・母子保健などを進め、昭和五二年には結核対策推進特別優良市町村全国表彰を受けた。五五年からは、保健婦二名となり精神障害者訪問、保健グループ活動育成・各種検診の受診率向上に力を入れた。同五八年には最初の精神障害者に係る集会がもたれ障害者に対する関心が芽生えた。
 昭和六一年(一九八六)四月には、「厚生協力員」改め「保健推進員」(平成五年度からは保健福祉推進員となる)を設置し、五月には中山町人間ドック利用助成条例の制定による、ミニ人間ドックを佐礼谷診療所で開始、また、夜間における集落巡回健康座談会の開催、住民の健康管理台帳の整備、パソコン導入など新規事業に取り組んだ。同年一〇月には、老人保健事業に関する基本検診等の受診率が(八二・一%)優秀であるとして、厚生大臣表彰を受けた。
 昭和六二年三月には、第一回健康まつりを開催し、健康体操の普及、同年八月には中央公民館に保健センターを併設した。同六三年度からは、ヘルスパイオニアタウン(健康なまちづくり事業)と取り組み、多彩な事業を展開中である。
 超高齢社会を目前に、在宅療養者 への援助は保健だけでの活動では不可能であり、医療福祉他機関との連携が必要である。近年の保健活動は高齢問題はもとより、高齢化の中での青壮年期の成人病予防、少子化や競争社会の中での子供の健全育成等幅広い活動が要求されている。これらの条件に対処するため、本町は平成五年四月から、保健福祉医療との連携を図り、そのネットワークづくりの拠点となる保健福祉課(保健婦出身課長松浦千枝子)を新設した。