データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

一、 伝染病

 明治・大正・昭和前期の保健衛生は、専ら伝染病との戦いであった。多発する赤痢や腸チフスに対する清潔法の実施、患者の収容措置、県衛生課からの衛生講話並びに、防疫宣伝活動写真会を催し、衛生思想の普及向上による伝染病の予防撲滅の運動を展開していった。
 明治二七年(一八九四)、旧佐礼谷村の事務報告によると、伝染病の発生状況を次のように報告している。
 「客年七月一二日赤痢病患者相発シ直チニ出張豫防消毒法ニ注意候共追々蔓延シ愈猖獗ヲ極メ吏員一人日々出張一一月三〇日ニ至り漸ク撲滅ス」。
 また、大正一二年(一九二三)の事務報告によると、「本村ハ定期及臨時ノ清潔法ヲ施行シ最モ注意ヲ怠ラザリシモ坪之内部落ニ赤痢発生シ引続八名ノ患者発生シ其重症ニシテ隔離病舎へ収容スルノ危険ナル旨医師ノ診断セシモノニシテ自宅療養セシモノ一名他ハ皆隔離病舎ニ収容シ専ラ療養ニ意ヲ用タリシモ四名ノ死者ヲ出シ他ハ全快シタリ数年間傅染病ノ発生無カリシ本村ニ昨年ニ限リ多数ノ患者ヲ出シタルハ遺憾トスル所ナリ只一部落ニ止マリ廣ク村内ニ蔓延セシメザリレバ防疫ノ効ヲ認ムルモノニシテ不幸中ノ幸卜云フベシ隔離病舎ハ建物古ク設備充分ナラザル爲メ改築決シタルモ位置ノ選定及設計設備ノ調査ノ爲メ年度内ニ於テ改築スル不能ナリシモ十三年度ニ於テ之レガ完成ヲ期セントス」とある。
 村内各部落を単位に衛生組合が設置され、明治三五年三月に、衛生組合費補助規程が制定されている(この衛生組合は、昭和一三年に組織の変更が行われ、一区一組合のものを全村一組合とし、区単位を支部とした)。
 また、毎年定期的に種痘を実施することによって、痘瘡の(天然痘)予防が行われ、年々その成績を郡長宛て報告している。
 伝染病の発生届出があると、役場吏員は、直ちに出動し、消毒の実施、患者の隔離等予防と撲滅に全力を尽きねばならず、感染の恐れが多分にあった。そのため、村(中山村、佐礼谷村ともに)においては、「傅染病豫防救治ニ從事スル吏員以下感染者手当給与規則」を制定し、従事者の保障安全を図った(明治三一年一二月一四日佐礼谷村会議決)。その規則は、次のとおりである。

第一条 村吏員傭員等ニシテ傅染病豫防救治ニ従事シ爲ニ感染シ又ハ死亡シタルモノハ本則ニ照ラシ手当金ヲ給与ス
第二条 手当金ヲ分テ療治料弔祭料救治料ノ三種トス
第三条 療治料弔祭料ハ左記ニヨリ之ヲ給与ス
    療治料 村吏員委員        一日金六拾銭
     〃  仝  傭人        一日金五拾銭
     〃  村ノ消毒人夫小使及看病人 一日金参拾銭
    弔祭料 村吏員委員          金一〇円
     〃  仝  傭人          金 八円
     〃  村ノ消毒人夫小使及看病人   金 五円
第四条 救治料ハ右ノ区別ニヨリ給与ス
     甲  村吏員委員          金四拾円
     〃  仝  傭人          金参拾円
     〃  村ノ消毒人夫小使及看病人   金弐拾円
     乙  村吏員委員          金弐拾円
     〃  仝  傭人          金拾五円
     〃  村ノ消毒人夫小使及看病人   金 五円
                   (後略)

 大正一三年には、手当金給与規則を改め「傅染病豫防救治從事者給与条例」が制定されている。

  傅染病豫防救治従事者給与条例
第一条 本条例ニオイテ傅染病卜稱スルハ傅染病豫防法ニ定ムル所ノ種類ヲ云フ

第二条 職務ニ依り傅染病豫防救治ニ從事シ又ハ病毒ニ感染シ又之ニ原因シテ死亡シタル時ハ本条例ノ規定ニヨリ手当金療治料弔祭料一時遺族扶助料ヲ給ス

第三条 傅染病者又ハ病毒感染ノ慮アル物品ニ接スルモノニハ手当金ヲ給シ病毒ニ感染シタルモノニハ治療中療治料ヲ給シ感染者治癒シタルトキハ給助料ヲ給シ死亡シタルトキハ其遺族ニ弔祭料及一時遺族扶助料ヲ給ス遺族ナキトキハ葬儀ヲ行フモノニ弔祭料ヲ給ス給与ヲ受ク可キ遺族ノ順位ハ官吏遺族扶助料法ノ例ニ依ル

第四条 手当金療治料弔祭料一時遺族扶助料ハ別表ニヨリ之ヲ給与ス
     別 表
     (図表 別表 参照) 

 また、学齢児童に広く蔓延したものに、トラホームがあった。旧佐礼谷村佐礼谷尋常高等小学校児童のトラホーム検診成績表をみると次のとおりである。
 検診児童三二二名のうち、患者数四一名患者率一二・七%であった。
 大正七年佐礼谷村役場は、衛生事務について次のように報告している。

  本村ニ於ケル衛生事項ハ出生死亡等人ロノ増減ニ付何等特異ノ事故ナク人口増加ノ大勢ニ從フモノヽ如シ大正七年中ニ於ケル衛生事務ノ概要左ノ如シ傅染病患者ハ「腸チフス」二名アリテ内一名ハ重症ニヨリ自宅療養ヲナサシメタルモ死亡シ他ノ一名ハ病舎へ収容治療セシメシニ経過良好全治シタリ
 然レトモ該病ハ経過ノ豫測ヲ爲ス能ハザル疾患ノ性質アルモノニシテ看病困難加フルニ永キ経過ノモノナレバ消毒人夫ノ配置減少ヲ許サズ從テ備品消耗品ノ給与多額ニ登リ多大ノ出費ヲ要シタリ
 公種痘ハ例年之通リ定期一回施行シタルニ結果良好ニシテ左ノ如キ成績ヲ得タリ(左ノ成績表省略)
 傅染病隔離病舎ハ常ニ修繕掃除ヲナシ備品消毒藥ノ設備ニ怠ラズ準備シタリ
 其他清潔法ノ施行及徴兵適齢壮丁小学生徒ニ対スル「トラホーム」検診ハ例ニヨリ之レヲ行ヒタリ

 参考までに、当時の医師種痘雇いあげ日当は一日金七円であった。また壮丁トラホーム洗眼料一回金八銭・小学校児童一回金五銭であった(大正八年一〇月伊予郡医師会長から、佐礼谷村長あて通知による)。
 古来不治の業病として恐れられた病いに肺結核がある。結核予防が本格化するのは大正時代に入ってからであった。
 大正八年(一九一九年)三月二七日、結核予防法が制定され、汚染家屋物件の消毒と健康診断の実施、予防施設療養所の設置、失業結核患者の生活費支給などを定めた。

人世ノ禍根
一 防グコトノ出来ル肺病ニ苦シム国ハ野蠻デアル
一 養生シテ癒ル肺病ヲ不治卜思フテ悲シムノハ時代後レノ人デアル
一 傅染スル肺病ヲ遺傅卜云フ人ハ既ニ古ヒ思想デアル
 これは、大正三年三月伊予郡長から、郡内町村長にあてられた結核予防の小冊子紹介啓発文の一部である。
 結核予防法制定以降、各町村においても結核予防協会への加入、健康診断、予防注射等が行われるようになった。
 また、昭和一四年事務報告(佐礼谷村)にも、
 「結核予防運動ニ関シテハ講習会部落座談会宣傅ビラ配布等ニヨリ本運動ノ徹底ヲ期シツアリ」とある。
 旧佐礼谷村「衛生統計報告書」をみると、大正元年から昭和七年までの二一年間死亡者数九二五人のうち、肺結核での死亡者数三二人となっており一年間で約一・五人が肺結核で死亡している。

表5-1 第一号表

表5-1 第一号表


別表

別表


表5-2 佐禮谷尋常高等小学校トラホーム検診成績表

表5-2 佐禮谷尋常高等小学校トラホーム検診成績表