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中山町誌

三、 昭和前期の社会福祉

 愛媛県社会事業協会の成立と中山町  
 大正一一年(一九二二)、愛媛県救済事業同盟会の事業を継承する形で、愛媛県社会事業協会が会員組織をもって創設された。これにより、明治時代以来真心をもって慈善事業や救済事業に携わってきた民間の篤志家や団体の県下的な連絡機関が誕生した。これが現在の愛媛県社会福祉協議会の前身である。県社会事業協会の活動目標は、社会救済事業の他に「官民一致して、世道人心を善導し、社会の不祥事を未然に防遏する」こともあり、協会の総裁には県知事宮崎通之助か推戴された。各郡からは評議員が選ばれ、伊予郡からは林実正が評議員となった。事務所は県庁の社会課内に置かれていた。
 佐礼谷村「村会議案綴」には大正一五年度歳出更正予算に「社会事業協会寄付金 八円」が初見される。これはその金額の小額さから考えると、佐礼谷村に社会事業協会ができたのではなく、地方公共団体としての佐礼谷村が県社会事業協会の活動に賛同して会費的な意味での寄付をしたものと思える。いずれにしても大正末期から昭和初期にかけて、中山町も佐礼谷村も県社会事業協会に加わり協会と共催して種々の活動をした。県社会事業協会の機関紙「愛媛社会事業」(昭和八年六月号・七月号)には、この年同協会の新会員に中山町の玉井岸江・渡邊正市・仙波文翁・西本増衛・中丸俊鴨・新崎常城・佐川亀太郎・妻鳥暁天・阿部十拳、佐礼谷村の久保田丑太郎らが加わり、救護活動や自力更生運動に尽力したことを記している。
 昭和五年(一九三〇)五月五日の第四回全国乳幼児愛護デーの催しの一環として、県社協が主催する乳幼児健康相談が伊予郡では佐礼谷村で実施された。なお、昭和元年度の伊予郡における乳幼児の死亡率は、出生届け総数三、〇〇七人中、一才未満の死亡三五八人・一才以上六才未満の死亡一八八人であった。これは他郡に比べると低い数値であった。同年七月、県社協などが共催する国産品愛用講演並びに映写会も佐礼谷村小学校校庭で開かれた。午後八時、村長から「国産品愛用に対する村民の自覚」、県社協の主事補から「国際貸借の改善、経済的難局の打開」と題する講演を聞き、内務省作製の国産品愛用宣伝フィルムを見て一〇時半に閉会している。なおこの催しの参加者は一、〇〇〇人と記されているが、参加者は昭和初期の金融恐慌から世界恐慌へと低迷を続ける日本経済の概況を実感したに違いない。

 経済不況と中山町教化連盟の発足  
 昭和初期、金融恐慌以来の難局に取り組む政府は公私経済緊縮運動を提唱し、郡市町村にあっては「財政緊縮」、民間にあっては「消費節約」運動を全国的に繰り広げていた。さらに満州事変が起こった昭和六年(一九三一)、五・一五事件が起こった昭和七年には時局を「非常時」と認識し、「自力更生」によってその窮乏を克服する「精神作興」運動が起こっていた。県は、こうした運動の実行事項を郡市町村長に送付し、地域の状況に応じて公私経済緊縮委員会などを設置するとともに、各種の教化団体と連絡提携して運動の趣旨徹底に努めるよう命じていた。県社会事業協会の機関紙「愛媛社会事業」(昭和七年八月号)には、県下における農漁山村の不況の状況が記され、伊予郡の欄には次の記事が掲載されている。女性の唯一の内職である伊予絣の織賃は一反につき二〇銭、一反を織るのに終日仕事をして二日間を要するので一日に一〇銭の収入にすぎなかった。
 昭和六年三月、中山町教化連盟はこうした状況下に、町長玉井浩三を連盟委員長として成立した。委員には農会長、郵便局長、小学校長、青年団長、婦人会長、女子青年団長、消防組頭のほか神職の妻鳥・渡邊・阿部・峯本の各氏、仏教界からは盛景寺・浄光寺・大興寺・梅原寺の住職が就任した。「十大実行要目」を目標として各委員は各部落を訪問して講演した。四月には県社会課の荻野主事や伊予事業学校長を招き、「現下の思想問題について」・「家庭経済について」と題する講演会を中山小学校で実施した。十大実行要目は次のとおりであった。

 一、国体精神ヲ明ラカニ    六、節酒献盃ヲ廃セ
 ニ、国家観念、国旗ヲ掲ゲ   七、衣食住ノ贅沢ヲ除ケ
 三、神仏ヲ礼拝、敬神崇祖先  八、国産品ヲ愛用セヨ
 四、時間ヲ確守        九、納税ノ義務ヲ果タセ
 五、冠婚葬祭ノ費ヲ減ゼ   一〇、勤倹貯蓄、貯金奨励

 これらの活動状況は伊予郡教化連盟の委員会で報告され、さらに〝肉なし日、酒なし日″などの「克己日」の運動方法、衣食住の生活改善策など公私経済緊縮や精神作興運動が徹底されるようになった。郡教化連盟委員会の出席者は中山町青年団長大松政春・佐礼谷村青年団長松本和雄・同副団長石田暑志らであった。

 少年教護委員と方面委員の設置  
 昭和初期の不況を背景に、都会では街頭で物乞いする児童が多くなり、曲芸や危険な興業に使用される子供、貰い子殺しなどが増えた。政府は、昭和八年に児童虐待防止法を公布して一四歳未満の児童の保護に乗り出すとともに、この年、少年救護法も公布して少年の不良化防止や非行少年の保護指導に当たった。少年教護事業の中心になるのは、彼らを収容して家庭的雰囲気の中で生活の指導を進める教護院と、少年教護委員であった。
 県下では、昭和九年の少年教護法施行とともに、五市三一町村に一七九名の少年教護委員を委嘱したが、昭和一三年六月にはさらに一二町村で七八名が追加された。中山町では、西村橘治郎・町田廣高・村上節一郎・茶野伊右衛門・亀岡浪吉・岡田操が任命された。彼らは、増加してきた出征兵士の留守宅の子弟にとっては、少年の親であり、兄姉であり先生であり、時には友達ともなって相談にのっていた。
 今日の民生委員の前身である方面委員制度は岡山県で始まり、愛媛県では大正一三年三月に松山市・宇和島市・今治市に二九名が委嘱されたのが最初であった。方面委員の任務は、県民生活の実情を調査し生活改善と生活安定の方法を講じ、救護を必要とする人には調査の上、救済方法を講じることであった。発足当初はまだ県下全市町村に委員を置くことを義務づけなかったため、社会救済事業の進んだ地域から徐々に委員の委嘱が行われ、昭和五年度までには上記三市の他に川之江町・西条町・大洲町・八幡浜町など三市一七町村に一五八名が委嘱された。
 昭和一一年(一九三六)方面委員令が出され、翌年一月よりこれが施行されると県下の方面委員数も増加した。中山町では昭和一三年七月一二日付けで、亀岡浪吉・岡田操・奥島源太郎・坂東数雄の四名が初代方面委員として県知事の委嘱をうけた。彼らは、隣保の相互扶助・互助共済の精神を大切にしながら、困窮者の生活状態の調査、扶助を必要とした人への自立向上の指導、社会施設との連絡にあたった。なお、佐礼谷村で昭和一四年度に方面委員二名の記載が「村会議案綴」に見られるが、氏名は分からない。

 方面委員の活動と戦時厚生  
 昭和一二年七月に始まった日中戦争が長期化し、戦火が拡大して太平洋戦争が始まると、方面委員の職務は救貧防貧活動に加えて銃後の国民生活安定が重要な課題となってきた。中山町の方面委員はこうした社会状況下にあっても、地道に貧困家庭の状況を調査し軍事扶助・窮民救護の世話をした。
 昭和一八年、町内に住む五九才のAさんの場合、自分は神経痛と関接リューマチを患い、妻はすでに死亡していた。二九才の長男は出征して戦地に赴き、二男は死亡、一九才の三男は九州の軍需工場で勤務中に怪我をした。長男の妻は三才の子供をかかえ、十分な農作業ができない状況であった。Aは小作人ながらわずかの自作地をもっていた。小作地一反四畝一三歩から米三石六斗を収穫し、地主に年貢米二石八斗を支払い、残り八斗を金額にして三四円八〇銭を得た。一反一畝二一歩の自作地からは米一斗五升(六円二五銭)、玉蜀黍三俵(三〇円)、裸麦二俵(三二円)、小豆一斗(五円五〇銭)、大豆一斗(三円五〇銭)を収穫した。これらを併せると年間一一二円五銭の収入であった。支出は食費・光熱費・雑費に病院治療費を併せて四三二円九〇銭であり、他に二、〇〇〇円の負債を抱えていた。方面委員はAの家を訪問し、相談相手になり励ましながらその救護にあたっている。
 また、夫を戦地に送り出した主婦Bさんは病弱ながら四畝ほどの畑に麦を蒔き、野菜も一畝ほど小作をして生活を支えていた。夫の実家に同居して生活の安定を計りたいが、そこには他家に嫁いだ夫の妹が、その主人にも召集令状が来たので身を寄せていた。女ばかり三人が一つの家にいると円満に生活していけるかとの義母の言葉に悩んだ結果、Bは方面委員に相談し生活援護を求めた。
 方面委員が直接関わったものではないが、この時期中山町から一九名の青年義勇隊員が満州開拓に出発した。福岡春義・古川国武・上田新八・高本政夫・大西芳文・正金茂俊・亀岡英雄・両門尭・田村寿夫・大野國満らであった。当時一四歳であったCさんは志願して青少年義勇隊に入り、昭和一七年三月九日中山を出発し県庁前での壮行式を終え茨城県の内原訓練所に入所した。五月に釜山に渡り、瀋陽・ハルビンから北上してハイルン県のトイテン(対店)で開拓事業に携わった。ここで終戦を迎えたが、電話線が切られていたため、ある朝ソビエト連邦の戦車が轟音とともに南下するまで、敗戦を知らなかったという。黒竜江の対岸まで強制連行されたが、途中家に火をかけ集団自決した他県の開拓団を見たという。軍関係者はシベリアに連行されたが、青少年義勇隊は釈放され、Cは必死の思いで昭和二一年一〇月博多へ帰って来た。
 戦局が悪化するにつれ、国内では食料増産運動・学徒動員が実施され、各町村では勤労奉仕団が編制されるようになった。外地での戦死者数も増加した。方面委員はこうした戦死者遺族や傷病軍人への慰問や生活援護のみならず、地域の指導者として町村での勤労奉仕・食料増産・消費節約運動・季節託児所の設置など、その活動は多岐にわたった。昭和一七年ビスマルク諸島で戦死した中山町出身のDさんの場合、金鵄勲章年金として二、一〇〇円と遺族扶助年金五二三円か遺族に送られた。Dの場合もそうであったが、「名誉の戦死」をした人々の葬儀は町葬として執り行われ、英霊として靖国神社に合祀された。昭和二〇年八月、広島で原子爆弾の犠牲になった人もいる。中山町出身のEさんの場合は、前年より広島陸軍病院看護婦として勤務し殉職したものである。