データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

二、 大正時代の社会福祉

 社会問題の発生  
 明治四五年(一九一二)明治天皇が崩御し年号が大正にかわると恩赦が行われた。これは犯罪人の刑罰を特別に免除することであるが、赦免さて社会に復帰する人々の更生保護のために、県下の僧侶を中心に各地に保護会がつくられた。大正二年に郡中町の栄養寺には伊予郡明道会の事務所が置かれ、郡内の篤志家や僧侶によって保護活動が行われた。これに係る費用の一部は町村の補助金であったらしく、佐礼谷村出納明細簿には毎年五円の支出が記されている。
 日清・日露の二つの戦争を経て、日本の資本主義は成長し、経済の急激な発展を促した。しかしその反面、景気上昇の波に乗り切れなかった人々の中には困窮する者が増加した。大正時代に入って政府はこうした細民に対する救済策を考究し、大正六年には内務省地方局に救護課を創設した。ここでは賑恤救済、軍事救護、感化院・盲唖施設・貧民施設などに関することを取り扱った。大正七年シベリア出兵をひかえて米価が急高騰した。全国で米騒動が起こり、八月には伊予郡郡中町でも農漁村の細民が米穀商を襲い、一四〇人の検挙者を出した。また翌年第一次世界大戦が終結すると、日本経済はいわゆる戦後恐慌に陥り、失業・貧困は深刻な社会問題となっていた。

 民力涵養と明月会  
 こうした社会の変容に対応して政府は様々な施策を講じたが、民力涵養運動もそのひとつであった。この運動は、国民に国体尊重の観念を喚起させて、敬神・崇祖・敬老思想、公共心・公徳心、団体生活に必要な規律、日々の努力心・隣保の助け合い精神、「資本主卜労働者、地主卜小作人、傭主卜被傭者トノ間ニ共済諧和」するという協調心を養成する国家運動であり、米騒動や戦後恐慌から生じた社会不安を除去し、民生の安定を図ろうとするものであった。愛媛県でも大正七年に庶務課の中に民力涵養係が設置され、同じ一〇年には、県下の社会事業行政確立のため内務部に社会課が設置された。その職掌は、社会教育・民力涵養・軍事救護・部落改善・男女青年団体・感化賑恤救済・免囚保護・住宅及び公設市場・失業者保護並びに職業紹介・生活改善並びに思想善導など多岐に及んでいた。
 県下の多くの町村では町や村を挙げてこの運動に取り組んだが、佐礼谷村の場合も民力涵養運動を通して村落共同体づくりに励んだ。当時の役場職員は、村長・助役・収入役・書記二名・使丁一名で構成されていた。民力涵養のような社会事業を行政主体で実施するには吏員数の問題から困難があり、必然的に区長(竹之内・日浦・影浦・障子谷・坪之内・村中・中替地・安別当・梅ノ木・平岡以上一〇地区に一人ずつ)や篤志家の参加と努力が不可欠であった。
 大正九年(一九二〇)三月五日、村の自治発展を図り民力涵養を期すことを目的にした明月会が組織された。村内の各戸主・在郷軍人・学校職員・役場吏員・駐在巡査・神宮僧侶が会員となり、例会は月一回満月の夜に開かれた。満一三才以上の者は男女の別を問わず聴講のために出席することが許された。「佐礼谷村報」(大正一二年一月一五日付)には「明月会事業」の記事がある。一二月二四日午前九時より村会議員・区長・明月会役員・在郷軍人・青年団幹部・その他公務を帯びた者など六〇名が、佐礼谷小学校で意見交換と協議をし、その後で質素な忘年会を催した。明月会の方針、農会の会則変更、警察よりの要望、学校からの希望事項が述べられた後、村長の松本萬蔵が座長となって、郡道や電灯導入工事がまさに完成目前の村の発展状況や村民の自覚について話し合った。特に、村の盛衰は婦女子の力に負うところが大きく、ともすれば向学心が欠乏している女子に対する教育の必要性を論じた者、文庫費を増額して青年教育に力を入れるべきと主張した者、模範婦女子の表彰制度を求める者など教育に関する話題が多く出された。ほかに塵埃捨場の設置要望や、太陽暦励行に関して否定的な意見が多く出ていることは注目に値する。会合の参加者は、新年の拝賀式には当然参列すべきこと、新年宴と敬老会についての説明を聞いた後、午後五時に散会した。明月会は村の歳入出予算書によると、昭和初期まで地方改良費補助として年間六〇円の補助を受けていた。

 敬老会と婦人会の活動  
 「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として敬愛され、かつ、健康で安らかな生活を保証されるものとする」。これは昭和三八年制定の「老人福祉法」の第二条である。第二次世界大戦前の我が国では高齢者を敬愛し長寿を祝う敬老会は、どの町村でも地域共同体の重要な行事で、婦人会や処女会(女子青年団)がその計画や運営に当たってきた。
 佐礼谷村では大正一〇年九月に初めて敬老会を実施し、その後は二年に一度敬老会を行うことになっていた。大正一二年九月は関東大震災のために敬老会の開催が危ぶまれたが、明月会では満場一致で開催に努力することが決まった。婦人会や女子青年団役員は寄付募集に奔走しながら会の準備をした。九月一五日午後三時、村の七〇歳以上の高齢者九七名中八〇名が顔に皺と笑みを漂わせて会場である佐礼谷小学校に集まった。来賓三名・明月会員三〇名・女子青年団員一〇〇余名を含めると二〇〇名を越える盛大な集まりであった。敬老会長でもある松本村長の祝辞の後、村内の婦人たちが真心込めて作った料理に舌つづみを打った。この間、お年寄りは女子青年団員の「家庭ダンス」の披露、児童の史劇「一六日の初桜」、有志の喜劇「焼き出されし人々」の公演や〝飛び入り〟の演技に慰められた。午後七時からは活動写真(映画)の上映があり午後一一時ごろ閉会した。なお、病気や事故などで敬老会に参加できなかったお年寄りには、婦人会の役員が記念品を届けた。この他、「佐礼谷村敬老会会則」(大正一〇年九月三日決議)によれば、小学校の運動会に際しては、特別優待席を設けて敬老の美風を涵養することとしていた。
 婦人会や女子青年団はこうした活動以外にも、村農会が主催する農村婦女子の料理講習会への参加、さらに昭和に入っては村内の応召軍人家族の慰問、慰問袋の作製、愛国切手や愛国葉書の販売協力なども行い、出征兵士が死亡し「無言の凱旋」をする時には犬寄峠に出迎えた。