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中山町誌

二、 立川村の境界変更

 昭和二八年(一九五三)の、町村合併促進法に基づく合併審議が行われる中で、中山町に近い立川村の区域の内には、風俗・習慣はもとより、交際・縁故にも深いつながりがある中山町へ「郡境を越えてでも」合併したいという住民が相当数あり、立川村役場に集団陳情を試みたり、あるいは、有志が県庁を訪れるなど、内子町への合併反対の気勢を盛り上げて結束の固さを示していた。
 しかし、立川村当局の「結果は県の裁定に任すよう」という回答があったため、県の裁定待ちという形になった。
 県は、「一応、内子町に合併し、その後、どうしても分離をということであれば、境界変更について住民投票の方法もあるから」という説得で、反対住民も内子町合併に納得した。
 その間、立川村の合併問題に関する紛議について調停を一任された、県議会議員、県地方事務所長、県地方課長、立川・中山両町村長の調停書が作成された。
 このあと、間もなく、昭和三〇年(一九五五)一月一日、喜多郡内子町・大瀬村・五城村・立川村・満穂村の五町村が合体合併して、新内子町が発足した。
 新内子町発足後、秋頃になると、またまた分離問題が再燃し、分離派と内子町当局で協議を重ねたものの、分離派が納得できる話し合いはできず、ついに、最後の手段である「住民投票」に持ち込まれた。
 この境界変更(郡界変更でもある)に関わる住民投票は、昭和三三年(一九五八)八月二四日、分離問題に関係する地域の住民だけで行われた。
 その結果、投票総数 四七二票
       有効票 四六六票
       無効票   六票
  有効票のうち、分離に賛成するもの 一六一票
         分離に反対するもの 三〇五票
 となり、分離派の中山町編入の希望は絶たれるとともに、この問題に終止符が打たれた(一部『内子町誌』引用)。

 中山町の対応  
 中山町では、内子町旧立川村の分離派住民からの強い要望もあり、中山町への編入促進を図るため、調停書の趣旨と、編入希望区域代表からの申し入れ事項などについて承認する議案などを町議会に提案し、いずれも原案のとおり可決されたが、住民投票の結果によって、日の当たらない幻の文書となった。
 中山町議会で審議された関係議案には次のようなものがある。

第三四号議案
   内子町字横平地区等の境界変更について
 喜多郡内子町字横平、日之地、境、幟立、川中々組、黒岩、大之地等の地区住民は、本町への編入を強く要望し、本町に対してしばしばこの旨申し入れがあるので、昭和二九年九月一八日附の別紙調停書の趣旨にのっとり同区域の編入促進を図るとともに、編入に関してさきに同区域代表から申入れのあった次の上欄の申入事項及び要望事項は、それぞれ下欄のとおり承認するものとする。

  昭和三〇年一〇月二三日
           中山町長  亀 本 好 惠
  同日原案可決
  愛媛県伊豫郡中山町議会議長  櫻 木 寛一郎
     調  停  書
 喜多郡立川村合併問題に関する紛議につき、調停を一任されたので、両者の意見を聴取の上、慎重協議の結果左の通り調停する。
       記
 喜多郡立川村の合併については、立川村議会の議決により決定するものとする。
 但し、伊予郡中山町又は喜多郡内子町の何れかと合併した後、旧立川村の横平、日之地、境、幟立、川中々組、黒岩、大之地等の部落住民において、中山町又は内子町(現在の名称による)の何れかと分割合併の希望を有する者多数あるときは、その意志を尊重して知事に勧告方を要請し、実現を期するものとする。
   昭和二九年九月一八日
       調 停 者
       県 会 議 員   白 石 春 樹
       〃         森 永 富 茂
       〃         久 保 茂十郎
       〃         森 平 茂左衛
       喜多地方事務所長  池 田 清治郎
       伊予地方事務所長  鷲 野 麟太郎
       県地方課長     中 井 猛 夏
       立 川 村 長   宮 岡 正 義
       中 山 町 長   亀 本 好 惠

図1-1 中山町と内子町の境界(旧立川村付近)

図1-1 中山町と内子町の境界(旧立川村付近)


申入事項及び要望事項

申入事項及び要望事項


要望事項及び承認事項

要望事項及び承認事項