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中山町誌

第三節 昭和四〇年より現在まで

  ― 安定への歩み ―

 昭和四〇年町合併一〇周年記念式典を開催し、大変和やかな雰囲気で終了、この時中山町章も決まった(後日改正)。四一年には永久選挙人名簿が作られ、以後選挙の能率化がなされた。
 これより三〇年間は町行政の企画・推進が大きく花開き、諸施設、設備等に大躍進を果たした時期である。
 四一年、中央公民館の落成をはじめとして、老人憩の家・長沢の町民運動場・屋内体育館が完成、老人の慰安の場や中山町スポーツの拠点作りがなされた。霊峰秦皇山山頂に壮大な観音堂と宿泊所が作られ、信仰とレジャーの両面を兼ね備えたメッカが誕生した。
 町の中心部には町を見晴らす高層の農業総合センターが完成し、各方面の集会に利用されるようになった。
 学校教育面でも、町内の全小・中学校にプールが設置され、また各小中学校に屋内体育館が完成し、学校給食共同調理場が中山小学校内に設置された。どの施設を見ても、他町村の学校教育施設に対し、充分誇り得る内容となった。中山高等学校も特用林産科が増設され、地域の要望に応えるようになった。
 生活文化的には簡易水道・町内有線放送も完成した。町民が大変不便を感じていた歯科診療に対し、旧郵便局跡に町営歯科診療所が設置された。

 交通運輸
 明治三九年、中山町-郡中(伊予市)間の県道が開通し、相前後して内子・大洲へと延びていった。だがこの県道は車の離合に運転手が苦労する程の狭い幅員のものだった。
 時の流れ、文化の進展によって余りにも遅れていた交通体系も大きく揺れ動いた。幅員・路肩共に改修に改修を重ねて来た県道五一号線も国道五六号線に昇格し、「犬寄ゼンマイ、ダラダラ酷道」と悪名を馳せた路線が、昭和四四年犬寄隧道を含む新国道に大きく路線が改善された。そして伊予市、松山市は時間的にも至近距離となり、また内子町、大洲市も隣町となった。
 これと相前後して、町内の各地区と町中心部との連絡道の建設も着々と進み、幅員も随所拡張され、舗装も大きく進んだ。終戦前後の昭和二〇年頃から見ると隔世の感といえる現状となった。佐礼谷地区、野中地区、そして永木地区の幹線は近代的複線へと計画され現在工事も進行中である。自家用車の著しい普及に応えて各方面へ通じる道路網の整備は急ピッチで進められていった。
 本町にとって、さらに大きな夢は鉄道誘致問題であった。何と言っても、国の大動脈の鉄道を誘致することは町民の多年の夢であったが、多くの人は無理だろうと半分あきらめに近い世情でもあった。その理由は、かつて大正末から昭和初期にかけて、鉄道建設計画があったが、上灘・長浜海岸線に敗れてしまったことにある。
 中山町を通る郡中・中山・内子線か、上灘・長浜を通る海岸線かの二つの計画が検討された時が本町にとって絶好のチャンスであった。
 中山町も町民挙げて力いっぱい運動に努力した。その頃は木材・木炭搬出が盛んで、馬車数十台が狭い県道の犬寄峠を列をなして上り下りして、郡中(伊予市)へ荷物を運んだものだった。この厳しい輸送事情も充分に見せたそうだが、政治力の強かった海岸通り線に決まり、中山通りの夢は消えてしまった。この大きな逸機により、バス・トラックの交通運輸に頼る外ないとあきらめていた。
 しかし、あきらめることなく心を奮い起こして私財をはたき、何としてでも中山町に鉄道をと、大きな夢を捨てず活動した人がいた。添賀の森井苫三郎であった。彼は地盤の弱い海岸通りは必ず事故を起こし交通難の元となると説き、地盤もよく、距離も近く、大局的にも中山町発展にこの上ないと、同志を募って鉄道建設の原動力となった。
 国会議員の格別の尽力を得て、関係町村住民の涙ぐましい運動努力によって昭和六〇年三月、鉄路開業ができたことは喜びこの上もない。

 福祉
 戦後、福祉行政の在り方が注目されるようになったが、昭和四〇年頃から急速に、老人福祉、病弱者障害者福祉、貧困者福祉、そして幸せな人生志向の福祉へと進められてきた。
 戦後の昭和三五年頃までは、旧来の家族制度が続き、親子二世代、三世代の家庭が主で、老人、病障害者はその家族が看病し保護幇助するのが当然の習わしとしていたが、働く場の広域化等より核家族が急速に増え始めた。
 そして若者は都会へ出て行き、老夫婦のみ中山町に残り、農業、商工業を営む傾向が強まった。このため、必然的に町は高齢化し福祉への要望が高まってきた。
 昭和三五年、四〇年頃は福祉の声は聞くが、それ程にはと軽く考えた者も多かったようだが、年を重ねる程に中山町の大きな問題の一つになってしまった。
 昭和六〇年代に入ると高齢化は益々進み、老人の割合が一八%近くに進んだ。町も福祉対策に懸命の努力を払い、県下でも有数の成果を挙げている現状である。そして平成五年作成の七ヶ年計画で、
 高齢者在宅保健・福祉サービス 在宅福祉の施設完備老人ホーム等の福祉施設 リハビリ等の推進徹底 自主的健康づくり 生きがいつくりの生涯学習 高齢者の幸せへ種々の活動
 これらを重点目標に努力する事になっている。誠に素晴しい福祉対策であり、平成一二年からは潤いがあり安心して老後を迎えられる中山町となることが期待されている。

 商工業
 戦後の交通事情の進展と自家用車の普及、極めて豊富な商品の流通、一般町民の文化度の向上、その他それぞれ住民の経済力向上等によって、商品に対する消費者の要求には、昔より格段の差が出てきた。このため小さな商店経営は苦境に陥り始めている。このことを先見して、昭和三八年中山町は、町商工会を結成した。五四年商工会館を建設、商工業者は先進地見学、商工業活性化への研修等いろいろ研究を進め、中山町に立脚した力強い商工業に向かって努力している。

 教育文化
 文化面では、義務教育(小・中学校教育)の素晴らしい拡充はもちろんだが、中山高等学校の発展、特に五八年には特用林産科が増設されてからはさらに内容が充実された。
 二〇年~三〇年代はベビーブームに乗って本町もなかなか活力に満ちていたが、世の移りの厳しさはまた児童生徒にも及んだ。四〇年頃から急激に児童数が減り始め、これが続き平成に入った現在、かつては二〇〇名を優に超えていた町内全域の出生児が、三〇名程度という想像もつかなかった少子時代を招いている。
 戦後より急速に自主的住民活動が起ったのが公民館活動といえるだろう。中央公民館、各小学校区に地区公民館(はじめは○○支館と呼んでいたが、やがて○○公民館と改称した)が設置され、地域住民の文化・生活向上を目的に、それぞれ地域に根ざした活動が行われている。
 また、公民館活動と共に各種団体活動も活発に動き始め、青年団・婦人会・老人会等をはじめ、農業、商工業、その他生活向上に関係し合う諸団体が結成され、それぞれの地位向上・社会奉仕・利益追求等に向かって力強い活動が続けられている。また、これらと共に町民の生活向上を願っての公共施設の充実が大きく推し進められている。戦後の平和日本確立と共に、生きる安堵感と喜びを持った町民一同は、豊かさを、家庭の安泰と潤いを、人生の生きがいを求めて努力を続けてきた。町当局も公共施設の充実、町民の利便福祉等にあらゆる努力を重ねてきたため、恵まれた中山町づくりに成果をあげている。
 中山町には、文化財として大切に保存管理していきたい事物が多い。それらは町指定がなされ、永木の三島神社にある石鳥居遺構をはじめとしてそれぞれ管理保護することになった。昭和四八年第一回ふるさと祭りが開催され、六三年町文化協会発足、文化祭が始まった。
 歴史の渦の中に消されそうだった中山国民学校(戦時中この名称が使われた)の講堂の寄贈者中岡伝吉翁の供養塔が作られ、翁の遺徳を永く偲ぶようになった。

 農林業生産
 最近になって変ってきた農業経営を述べてみる。

 米
 米は最も大切な主食で、町内全農家が生産の多少は別として、古えより取り組んできた。しかし山間地ゆえ多くを売り出す農家はほんの一部で、自家用の生産が主であった。米作はかなり面倒な用具・作業が必要で、小規模の農家は米作りを止めて他に仕事を求めるところがふえてきた。ちょうど松山方面へ通いで働きに出る仕事が増え、町内でも労働者の働き場が急に増加した事も大きく関係する。中山町は段々畑といわれる傾斜地の田や畑を国の力を借り、大々的に圃場整備し機械化農業に向けて大きく動いている現状である。

 野菜
 昭和四五年新国道が完通したため、松山方面へ向けての出荷流通は極めて良くなった。このためみかん、栗等が成木になるまでの間作に野菜作りを始めた。やがて五三年頃農協が栽培・販売に力を入れ始め、野菜作りが軌道に乗ってきた。
 安別当、天つばさ、小池、長沢等が中心となって、農協の指導の下、野菜部会を組織し、野菜作りを大きく進展させている。六〇年頃からハウス栽培が行われ始め、これも今後の活性化の道ではないかと言われている。

 林業
 中山町では全面積の六五%が山林であり、その山林収入が経営者の豊かさを左右し、支えていたともいえる時代が長く続いた。しかし、終戦後貿易も国際化し、米国、南方方面よりの外材輸入が盛んになったこと、建築様式が急変したこと等いろいろな事情により、国内産の木材消費がずっと落ちこんだ。この波は中山にも厳しく波及し価格の下落低迷が大きく林業経営者を嘆かせている。
 この事態にあたり、指導的位置にある森林組合では、木材の重要性はもちろんだが、水資源確保、大気の清浄化、山野荒廃防止等の副次的重要性を合わせた山林愛護育成に乗り出している。中山町林業の前途はあくまで優良材作りの研究努力にかかっているが、広い意味での国土愛護の町民の意識高揚と努力いかんに左右されるのではないだろうか。

 キウイフルーツ
 近年少し目新しいものでキウイフルーツの栽培がある。新しい果樹として、六〇年頃中山に導入され、犬寄、日南登が主としてこれに取り組んでいる。適地問題もあってみかんがやや不振の本町では、みかんを止めてキウイフルーツ栽培に切り替えた農家もあった。今の所まずますの横ばいの状態で模様眺めというところである。

 その他
 中山町農業の指導者が半分冗談を交えて「中山町は作れば何でもできる上地だから却って特産物ができん」と言っていたので、風土的に中山町は案外恵まれているのかもしれない。だが焦点をしぼって取り組まないと俗に言う「あぶ蜂取らず」で終りそうなので、農家も一生懸命研究模索していると聞く。その一つとして花卉栽培が次第に広がっている。

 工場誘致
 町民の大きな願いの一つである工場誘致については、山間で条件の不利な中山町には、なかなか思わしい企業も入ってくれなかったが、昭和四八年、岐阜プラスチック四国工場と、光華メリヤス中山工場の誘致が実現し新しい息吹きを作った。ついで平成元年、入江工研中山工場誘致に成功した。清潔さこの上ない有望企業にて町民の期待は大きい。

 町民の喜び
 昭和四一年中山中学校女子ソフトボール選手が四国大会で優勝、また宮野篤夫(泉町二)がインターハイ(軟式庭球)で優勝、これに続く栄誉者を期待している。
 六一年待ちに待ったJR内山線が開業、駅前の特産品売り場と共に活気を呼びこんでいる。

 さらに活力を求めて
 平成二年、長沢に木工加工施設、穀類等乾燥調整施設完成。三年、まちづくりキャッチフレーズ、シンボルマーク決定(鮮度一〇〇 自然も味覚も人情も)中山町の愛称となった。さらに長沢にウッドクラフトセンター落成、町営豊岡団地完成、鳥取県中山町と姉妹町として交流開始(毎年交歓会を持つ)、秦皇山ログハウス完成、ウッドクラフトの里公衆トイレ完成、そば道場完成、誠に矢継ぎ早の企画推進が行われた。