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中山町誌

三、 第二次世界大戦と郷土

 昭和一二年(一九三七)の蘆溝橋事件から日中戦争へと拡大し、やがて同一六年太平洋戦争へと突入した日本は、生産力や軍事力の低さから長期戦を続けることはきわめて困難だった。同一七年六月、ミッドウェー海戦の大敗北を転機として戦局は次第に悪化した。しかし、軍部は戦況の報道を曲げ、国民の戦争意欲を盛り上げるために言論を厳しく規制していた。
 この頃から、敵機が本県各地を偵察するようになってきたので実戦即応の防空訓練が行われるようになり、バケツ送法、竹槍訓練が実施された。
 こうした中、同年七月二二日夜から三昼夜にわたって県下に豪雨が襲来し、各地に大きな被害をもたらした。勤労報国隊が組織され、中山町の人々も北伊予中川原の決壊地の復旧に出動した。
 戦時下、毎月一日を「興亜奉公日」と制定(昭和一四年)されたので、町民は一家に一人以上が朝早くそれぞれの氏神に参拝して戦勝と出征軍人の武運長久を祈願した。また一億一心滅私奉公を誓い、毎日部落ごとにそれぞれの家が順番に神社仏閣を参拝し祈願した。
 昭和一六年七月に森林組合が設置され、材木の命令伐採が行われるようになった。これにより、無許可建築の禁止、農地等土地の売買登記の一時停止、物価、賃金等変動の停止が布達された。
 米、麦、さつまいも、じゃがいもなどは強制割当供出となり、米穀や衣料は切符制となり、生活必需品は全て割当配給となった。食塩が無いので、まきを尾崎(現伊予市)の浜に運んで海水を炊いて塩を作って分かち合ったりもした。「日の丸弁当」・「国民服・モンペ」の奨励など消費生活に対する意識の改革が図られ、耐乏生活が強制された。
 昭和一九年二月、農会と産業組合を統合し、農業会と改められ、戦時体制下に置かれた。
 重要物資、特に金・銀・銅製品の強制買上げや一般金属の回収を行い、食糧の増産に校庭までも開墾してさつまいもを作り、松の皮肌や松の根を掘って油を採った。農兵隊として軍事基地の建設や工場などへ動員され、学徒も動員されるようになった。
 同二〇年三月六日国民総動員令が公布になり、男子は一二歳より六〇歳まで、女子は四〇歳までを要員範囲とした。「一億玉砕」が国民の覚悟とされた。
 同年三月一九日、本県に敵機が来襲し爆弾を次々に投下した。同月二五日早朝には中山町の上空で戦闘が行われたこともあり、我が軍の劣勢をまざまざと町民に見せつけられる事態となった。
 昭和二〇年七月二六日午後九時、B29約六〇機の編隊が松山市を空襲し、市街の大部分が焼土となった。翌二七日には中山町出身の人々や中山町に縁故のある人々が続々と焼け出されて、着のみ着のままで帰って来た。凄惨な有様たった。警防団員や在郷軍人は松山市の焼跡を整理するため二日間出動した。
 七月二九日には宇和島市が、八月五日には今治市が空襲された。六日には遂に広島市が原子爆弾によって襲撃され、九日には同じく長崎市に原子爆弾が投下され、世界有史以来の大惨事が起きた。日本は遂に八月一五日、ポツダム官言を受諾し、ラジオから天皇による戦争終結と無条件降伏が放送された。
 日中戦争から太平洋戦争と八年におよぶ戦争の間に、戦場にあるいは開拓に、工場に動員された人々の数はおびただしいものであった。中山町における戦病没者は旧中山町で二五四人、旧佐礼谷村で七八人、計三三二人であった。その他多数の傷病者や戦災者を出し、郷土の人々は敗戦の惨めさを深く味わった。
 昭和二一年一一月三日、新しい憲法が公布され、翌年五月三日施行された。郷土の行政・産業・生活の上にも平和で民主的な政治の潤いを浴びるようになり、希望に満ちた輝かしい発展が続けられるようになった。