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中山町誌

二、 日清戦争と中山町

 明治維新以後の日本の近代産業の発達に対して、国内市場はあまりにも貧弱であったため、勢いその目は朝鮮半島に向けられた。当時、清は朝鮮を属国とみなしていたため、朝鮮をめぐって日清両国は利害が対立し、明治二七年(一八九四)八月一日に日本は清に対して宣戦を布告した。日本軍は清軍を破り、明治二八年四月一七日に下関で講和条約(下関条約)が調印された。
 この戦争は、徴兵令施行後外国と戦った初めての戦争であり全国の軍隊が動員された。中山村・出淵村からは一三人が出征し、出淵・佐礼谷から各一名の戦病没者を出している。この当時はまだ日露戦争以後のように出征に際して、一同で三島神社へ参拝して武運長久を祈願する習慣はなかったようである。出征兵が凱旋して来た時は三島神社で祝辞が送られ酒宴が催された。また永木三島神社には、この戦争に出征したことを記録する征清記念碑が建立されている。