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中山町誌

一、 明治初期の兵制

 明治維新の後、明治政府は諸々の改革を行った。武士だけに独占されてきた兵制を改め、徴兵制度を設けて士族・平民の区別なく兵籍に編入することにしたのも大改革の一つであった。明治元年(一八六八)四月に「陸軍編成法」を発布し兵制の確立に努め、明治二年七月に兵部省を新設し国軍編成の立案を命じた。続いて明治三年一〇月には各藩の軍事教育は陸軍はフランス式、海軍はイギリス式を採用するよう指示したが、兵は依然武士である藩兵であった。
 明治四年(一八七一)四月に、薩長土の三藩から選んだ一万の兵を御親兵として兵部省の直轄とした。この力を背景に一挙に藩兵の解散を命じ、廃藩置県の断行に成功した。
 明治五年二月に兵部省を廃し、陸軍省・海軍省が設けられた。明治六年一月に徴兵令が発布され、これにより当初は満一七歳から四〇歳まで、後には満二〇歳に達した男子は、士族・平民の区別なく徴兵検査が行われ、国民皆兵の近代的兵制が敷かれることになった。
 しかし、当時は戸籍上の長男や官吏等は兵役が免除されていたので(明治一六年廃止)、制度上の不備に乗じて、二・三男が戸籍上どこかの家の養子となって徴兵を逃れたり、入隊後訓練を嫌って脱営する者などもあったが、制度に慣れるに従ってこうした問題も順次解消されていった。
 愛媛県では、明治七年に松山と西条に徴兵署を設置し、九月二四日に第一回徴兵検査を始め一〇月一日に完了した。中山地方は郡中村にある栄養寺を検査場として検査を行い、合格が決まると兵種(甲・乙・丙・丁・戊)が決定し、甲種の者が抽選して若い番号の者から必要人員だけ現役兵を徴集した。
 その頃中山地方は広島第五鎮台の管轄で、歩兵は丸亀に他の兵科は広島に入営した。服役年限は七年で現役兵の在役三年、後四年は予備役に服した。これは明治一七年(一八八四)六月二五日の松山歩兵二二連隊創立あるいは明治三一年(一八九八)の善通寺第一一師団の新設まで続いた。
 さて、明治一〇年二月、先に征韓論に敗れた西郷隆盛が郷里鹿児島に帰り兵を挙げた。これが西南戦争で、三月八日付愛媛新聞第五四号に「愛媛県公布二七号」が掲載されて県民に報じている。この戦いには愛媛県内からも従軍者があったが、本町から従軍者があったかどうか明らかでない。