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中山町誌

一、 郡会議員選挙と中山町

 明治一一年(一八七八)七月二二日に、太政官布告第一七号をもって町村制度の画期的法律とも言える「郡区町村編成法」が公布された。これによると、「地方を画して府県の下に県を置く」「郡毎に郡長を一名置く」等定められており、明治一一年九月七日に郡の事務取扱所を「郡役所」と称する布告が出された。これが大正一五年(一九二六)に廃止されるまで、四八年間一般に親しまれた郡役所である。
 さて、愛媛県ではこれより先の明治九年七月三一日「大区会仮規則」を定め、大区会の開設を促したが、「(明治一〇年)三月九日第二金曜日ヲ以テ開場仕候処病気事故之レ有リ議員出頭少ナク半数ニ至ラサルニ付キ」延期(第一五大区会議長ヨリ大区会ノ儀ニ付キ伺)といった伺から推して、あまり活発でなかったと思われる。また、この法律の公布により「町村連合会」が開設され、後に「郡議会」へと発展していった。
 明治二一年(一八八八)に「市制」「町村制」が、明治二三年に「府県制」「郡制」が公布された。この時まで中山村は喜多郡であったが、郡制の公布により、従来から下浮穴郡であった出淵、佐社谷村と同じく下浮穴郡に編入された。明治二九年四月一八日には「愛媛県下郡廃置法律」が公布され、明治三〇年四月一日から三ヶ村とも伊予郡となった。
 郡は、府県と町村の中間の地方自治団体として成立し、近代的地方自治制度が発足するのであるが、完全実施には一〇年の歳月を要した。
 伊予郡役所は郡中町湊町本町通り、灘町と湊町の間の梢川に架かる常世橋北約三五メートル東側に置かれた。郡会は、郡内各町村で選挙した議員と郡内の町村税賦課対象額一万円以上を有する大地主が互選した議員とで組織された。定数は、各町村から一名で二〇名を限度とし、大地主は町村選出議員定数の三分の一相当で三分の一以下であれば選挙によらずに議員となれた。任期は、町村選出議員は六年で三年ごとに半数改選し、大地主は三年で全員改選した。
 郡会は年一回通常会を召集し、郡長が議長となった。また、副議決機関として郡参事会を置いた。参事会の構成は郡長と名誉参事四名で、名誉参事の内三名は郡会議員の互選により、一名は県知事が郡会議員または郡内の公民の中から選任した。参事の任期は議員と同期間とした。そして郡役所は、郡の財産収入と町村への分賦金によって運営された。
 しかし、この制度は明治三二年に全文改正され複選制と大地主議員制を廃止し、郡内の町村を単位とする選挙区を設けて直接選挙によって選出するよう改められた。
 その後、大正二年(一九一四)に一部改正され、更に大正一〇年四月に郡制廃止に関する法律が公布され、大正一二年四月一日をもって廃止となり、地方自治体としての郡は消滅した。しかし、行政官庁としての郡長はその後も引き続き存続したが、これも大正一四年一月に廃止された。
 歴代郡会議員は、郡役所の廃止により書類散失して詳細を知ることができないが、町村議会より選出されていた複選制時代には、町村長が郡会議員として選出される傾向があるようである。役場の資料より判明する選挙の状況及び郡会議員名簿は次のとおりである。
 一例として中山村の状況をみると、明治三〇年(一八九七)の郡会議員選挙は、中山村役場において午前七時より午後三時まで投票を行っており、開票の結果は次のとおりである。

  有権者数       一六八名
  投票者数       一四一名
  有効投票数      一二六票
  無効投票数       一五票
  投票内訳
   当選  松本竹蔵   七八票
   次点  久保利七   四五票
       大森勝弥    二票
       奥村唯次郎   一票

    郡会議員名
 中山村(大森清幹、福島運太、松本竹蔵、武田国五郎)
 出淵村(山本常行、太森只衛)
 中山・出淵合併後の中山村(高野品三郎、鷹尾寅太郎、窪中鉄次郎、山村辰治郎)
 佐礼谷村(亀岡折衛、飛田熊吉、西岡竹三郎)