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中山町誌

三、 本陣・伝馬

 巡見使の通行、藩主の回領、他藩主の通行などに際して、宿を提供する家は限定されていた。大洲藩では五本陣と称するものがあった。巡見使三名のうち、正使の宿を本陣と呼んだ。五本陣は大洲・長浜・上灘・郡中灘町・中山村である。中山村の本陣は長岡氏で、初代九郎右衛門は本姓越智氏で新居郡に住んでいたが、近江佐々木氏の家臣となり、佐々木氏没落後、伯耆国米子に移り加藤氏に仕えた。加藤氏が大洲に移った時、伊予中山村に来住し庄屋役を命じられた。出淵村庄屋は脇本陣とされ、泉町玉井家と同様に巡見使や藩主の宿を勤めた。「積塵邦語」に記されているのは、本陣長岡定蔵・脇本陣玉井与五郎・脇本陣出淵与三右衛門である。宝暦一一年(一七六一)の巡見副使市岡左膳が玉井家に宿泊している。正使大河内善兵衛が長岡家に宿泊したのは間違いないだろうから、副使遠山織部は出淵村に宿泊したと判断できる(玉井家調査報告ビデオ)。
 「積塵邦語」は長浜の長老佐々木源三兵衛義行が文政四年(一八二一)に編述したものとされるが、灘町の灘屋六右衛門宅が焼失したのを「今歳文政五午年五月焼失」と記しているところから、中山村の本陣・脇本陣の人名は文政五年当時のものと解釈したい。
 大洲領には十伝馬と称するものがあり、巡見使、藩主をはじめとする賓客のために人馬を提供した。大洲領の十伝馬は三ケ所に情報発信元があり、それぞれの系列の下にいくつかの伝馬拠点があった。大洲拠点では中村・八多喜・須合田、長浜拠点では串村・大久保・上灘・森村、米湊拠点では大平・中山・出淵・内ノ子が管内の伝馬所であった。「積塵邦語」には「以上、官道十ケ之御伝馬所也、人馬賃銭里数之御定風雨夜中に限らす滞るましき旨を被命、則御奉行処より之御制札有之」として当時在勤の役人、加藤伝左衛門・加藤左盛・村上権左衛門・松本半平・長尾半蔵の名を記している。中山村の伝馬は本陣の長岡定蔵が兼務、出淵は月番伝馬出淵与左衛門の名が見える。