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中山町誌

四、 農間余業 (農間稼)

 江戸時代の農民は特殊なものを除いては、生活必需物資のほとんどを自らの手で作り出さなければならなかった。自給自足の目的で、自家用の物を作るかたわら、余力のあるものは、生計を助けるため、賃仕事(日雇)に出たり、ぞうり・わらじ作り、機織りなどに従事するものもあった。
 商品生産が進んでくると、城下町に出かけて、酒・酢・醤油・灯油・紙・蝋燭・小間物類・塩・魚などを仕入れて、村人に売る小商いに従事するものも現れた。時には、農業が従になることすらあった。
 また、農閑期を利用して、大工・木挽・屋根屋・桶屋・左官、その他の職人の手伝い、もしくは独立して職人稼ぎを主とするものもあった。
 交通の要地に自然発生的に出現する在郷町は、こうした商業渡世・職人渡世の人々が集住していた。もちろん藩の都合で農村部に形成された在郷町は、免税の特権を得ていたが、藩の許可がない場合でも、ほとんどの村に農間稼ぎとして商業・職人渡世をするものが数人は存在することが普通であった。
 酒造業については、農村部で豪農が酒造株を取得して製造に従事する場合もあり、こうなると農間稼ぎの域を通り越して、農村家内工業から農村手工業の段階に進んだといえよう。大洲藩一〇代藩主泰済の時代、大洲領では酒造人五五人が登録されている(うち休み株一七)。
 酒造米石高は一万四、七〇三石二斗となっていた。
 天保一四年(一八四三)幕府は酒造鑑札制度を発足させた。同年四月八日、大洲藩は幕府より四八枚の鑑札を受け取った。その内訳は城下町六枚、長浜二枚、郡内三四枚、郡中六枚であった(江戸御留守居役用日記)。中山村は村外へ物産を移出することが多かった。明治初年の統計であるが、酒造業者が四軒、売茶三軒あり、酒一、一八〇石、茶五九〇斤を移出していた(『喜多郡地誌』)。
 物産を領外へ移出する場合には藩の許可が必要であった。寛政一〇年(一七九八)五月二三日大洲藩は、物産移動手続きを布達した。その内容の中に内山筋に関するものがある。「内山筋から蝋・櫨・蜜を犬寄越えに出す事は今後差し止め、上灘出津に取り計らうように」というものであった(「大洲藩規則集」要約)。