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中山町誌

二、 御師・先達・檀那

 さて、那智参詣に出かけたこれら七村の中の「地下一族」とはどのような人々だったのであろうか。この史料6だけでは推測しようもないが、他の例からみれば地域の有力者、国人とか土豪とか呼ばれる村の領主クラスの人々であろう。その際、ひとつの手がかりとなるのは史料7である。これは、史料6から約五〇年後の寛正元年(一四六〇)のものであるから両者を直接関連づけて考えることはできないが、ひとつのヒントにはなる。同じく「米良文書」のなかの一通であるが、文中に「伊与国せんはの一門」と出ているのが注目される。伊与(予)国のどこなのか明記されていないから断定しにくいが、中山の仙波氏と考えて差し支えないのではなかろうか。そうすると、五〇年後には仙波一門の人々が那智参詣にかかわっていたことになる。これらのことをあわせ考えると、史料6に見られる「地下一族者」というのも、仙波氏か、それにかかわる人々である可能性が高いといえよう。
 さて、いかに村の有力者といえども、当時の社会情勢のもとでは、独力で熊野まで出かけるのはなかなか容易なことではない。そこで必要なのは案内人である。それを示すのが、史料6中の「先達」である。先達というのは、地方から熊野に至る道中の道案内、関所・渡船・宿泊の世話など旅にかかわるあらゆることを取りしきる人々のことである。いわば中世のツアーコンダクターというところであるが、現代のそれと異なるところは、彼らの多くが修験者(山伏)であったことである。従って彼らは、一定の宗教的訓練を受けていたので、途中の熊野王子と呼ばれる霊地で行う拝礼や心身を清める儀式の導師を勤めたり、帰路や帰還後のさまざまな作法を執り行った。
 また先達は、さまざまな事情で参詣できない人々のために喜捨(寄付)を熊野まで届けたり(いってみれば後世の代参)、熊野神社の修造の費用調達のために勧進を行ったりもした。史料6には先達は宝蔵寺と見えるが、大字中山の添賀にかつて宝蔵寺という名の寺が所在していたというから、これと関係があるかもしれない。いずれにしても、この寺を拠点とする修験者が先達を務めたものと思われる。
 先達に案内された中山の人々がどのようなコースを通って熊野まで出かけたのかはよくわからないが、瀬戸内海を船で渡り、当時近畿地方最大の港町であった堺で上陸してここから陸路をとった可能性が高い。堺からは紀伊路と呼ばれた海岸沿いの道を南下し、紀伊国田辺で、コースは二つに分かれる。海岸沿いに南下するコースを大辺路と呼び、東に向かって山中を進むコースを中辺路と呼んだ。熊野本宮に至るまでのコースの途中には王子と呼ばれる九十九の遙拝所があり、ここで先達の指導のもとにさまざまな儀式を行いながら旅を続けたのである。
 さて、熊野に到着すると、一行は、御師と呼ばれる人に迎えられる。御師とは、熊野の現地において、参詣者や先達を受け入れ、宿泊・祈祷等の世話、山内の案内などにあたる人のことである。御師と参詣者の関係は、最初は参詣のときだけの一時的なものであったが、参詣が継続すると、御師と参詣者の間には恒常的なつながりが生じ、参詣者を御師の側からは檀那と呼ぶようになる。史料6の場合その御師にあたるのが実報院の道診という人物で、実報院は、六〇~七〇にも達したといわれる熊野御師の中でも最も有力なもののひとつである。先達は檀那を熊野に導くと御師あてに檀那の在所・氏名、自分の在所・名前・年月日などを記した文書を御師に差し出した。これを檀那願文というが、史料6もそのような文書のひとつである。
 ところで、御師にとっては檀那は信者であるばかりでなく、経済的利益をもたらしてくれる、いわばお得意様であった。このようなことから、中世も後半になってくると、檀那は一種の財産と見なされるようになり、相続、譲渡、売買の対象となる。史料7はそのようなことを示すもので、善成坊什湛という御師が、伊予国の仙波一門と上総国(千葉県)の渡部一門の檀那を同じ御師である実報院に譲渡したことがわかる。
 中山地域の熊野信仰にかかわる史料としてはもうひとつ史料8をあげることができる。断片的で前後の事情がよくわからないが、「ふせんきみ」(豊前公か)を先達として出淵中山(「出淵の中山」かあるいは「出淵と中山」か判然としない)の「へいない」という人物が、熊野参詣をとげた際の願文と見てさしつかえないであろう。既に正平一九年(一三六四)の時点で、出淵・中山の地名が見えることは興味深い。
 このような熊野信仰は中山地域のみならず、伊予国全域で確認することができるが、特にこの痕跡が顕著なのが、旧喜多郡のうち大洲市・内子町・五十崎町周辺である。これに中山町域を含めて、中山川、肱川流域に広範な熊野信仰圏とでもいうべきものができあがっていたのかもしれない。熊野信仰に関してもうひとつ大事な点は、熊野と在地の間を行き来する先達や檀那が、信仰ばかりではなく、文化を伝える人々でもあったということである。
 江戸時代の四国遍路や金毘羅参詣の旅が、信仰の旅であると同時に知識吸収の機会、娯楽の機会であったことはよくいわれるところであるが、熊野参詣の旅にも、多かれ少なかれ、そのような側面があったのではないだろうか。先達や檀那は、熊野参詣の帰りには、京都や堺の町に立ち寄り、都市の雰囲気を味わい、新しい文化を吸収して帰ったはずである。また、彼らが直接新しい文化を持ち帰ったばかりでなく、先達や檀那のいる地域には、別の地域の先達や修験者が、あるいは布教のため、あるいは勧進のために廻ってきたはずである(先達のなかには、地元に根をおろした在地先達のほかに、特定のところに居所を定めないで、各地を旅してまわり、その先々で檀那を熊野に導く遊行先達とでもいうべき人々もいた)。彼らは、布教の方法として、語り物やその他の芸能を加味して、民衆の心をつかもうとすることが多かったというから、彼らと一緒に物語や芸能が地方にやってくることもあった。また外に、熊野比丘尼と呼ばれた旅の女性たちがいる。彼女たちは、熊野曼荼羅(熊野に関係する神や仏を絵に表したもの)や地獄・極楽等の図を携えて各地をまわり、多くの民衆に熊野の神徳をわかりやすく解説すると同時に、やはり物語を語って聞かせた。
 このように熊野信仰を媒介にして、ある時には地元の先達や檀那により、ある時には漂泊の修験者や熊野比丘尼により、新しい文化(特に物語や芸能)が在地に伝えられることになったのである。

史料7 旦那売券 [米良文書]

史料7 旦那売券 [米良文書]


史料8 旦那願文 [本宮大社文書]

史料8 旦那願文 [本宮大社文書]