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中山町誌

一、 中世城郭

 中世における大字中山地域の有力領主が合田氏であったとすれば、大字出淵地域におけるそれは出淵氏(のちの仙波氏)である。その出淵氏にかかわりのある遺跡が伊福城と垣生城であり、両城とも今にその名残りをとどめている。
 伊福城は、大字出淵字漆と字福岡の境界にあたる標高四三八メートル、中山町中心部からの比高約二六〇メートルの山頂に築かれた山城である。中山町中心部から南の方向を眺めると扇形の美しい姿をした山が見えるが、この山が伊福城の所在していた山である。とりたててかわった山ではないが、そのつもりでよく見ると、頂上部分がやや平坦になっていることに気付くはずである。これは人工的に削平されたためにこのようになったのであって、この部分こそがかつて城が築かれていたところである。
 ただ城といっても、そこに松山城や宇和島城のような天守閣が建てられていたわけではない。松山城や宇和島城は近世(ほぼ江戸時代に相当する)に築かれた近世城郭とでもいうべきもので、伊福城や垣生城はそれより一時代前の中世に築かれた城(中世城郭という)なのである。近世という時代は、それまでの戦国時代が終わりをつげ、徳川幕府の力によって全国に平和が到来した時代であるから、本来は戦いの拠点であった城も次第に軍事的な色彩を薄めて、大名の領主支配の拠点、あるいは権威の象徴としての性格を強めることになった。だから、近世城郭の多くは、松山城や宇和島城のように美しい天守閣やきちんと積まれた石垣を持っていることが多い。これらは、いわば戦うための城というより見せるための城といえる。
 それに対して中世城郭の方は、南北朝の動乱の時代や戦国時代という戦いの時代に築かれたものであるから、その作り方はおのずから松山城のような近世城郭とは異なっている。近世城郭と中世城郭の相違点のひとつは、その立地条件である。近世城郭は、領主支配の拠点という性格があるから、それに都合がいいように領地の中心地の平坦部や、せいぜい一〇〇メートル前後の小高い丘の上に築かれることが多い。それに対して戦いの拠点である中世城郭は、防御性を高めるために高くけわしい山の上に築かれる。多くの場合、標高二〇〇~四〇〇メートルの地点に築かれるいわゆる山城である。
 もうひとつの近世城郭と中世城郭の違いは、その構造である。近世城郭が天守閣のような建物を重視するのに対して、中世城郭は大地に手を加えて防御施設を作りあげることを重視する。例えば曲輪(郭)と呼ばれる平坦地、曲輪をとり巻く土塁、曲輪に至る尾根道を断ち切った堀切、曲輪の側面を守るための縦堀や横堀などがそれである。