データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

中山町誌

四、 合田貞遠

 このように永木の周辺には、中世の雰囲気が色濃く残り、応永期の地頭合田通基の支配のあとを窺うことができるが、合田氏の存在そのものは、さらに六〇年ばかりさかのぼって確認することができる。そのことをはっきりと示しているのが史料1の古文書である。
 これは大山祇神社の社家三島家に伝えられた古文書「三島家文書」のうちの一通で、当時の三島神社(大山祇神社)の社家の一族で御家人でもあった祝彦三郎安親が、建武三年(一三三六)三月に自らの軍忠(合戦での手柄)を報告したものである。それによると安親は、合田弥四郎貞遠が多くの軍勢を率いて伊予郡松前城(当時の表記は松崎城)に立て籠ったのを攻撃して、二月一九日にこれを攻め落とし、さらに合田貞遠が松前城を逃れて由並の城にひきこもると、再びこれを攻撃して城を焼き払ったという。ここで、祝彦三郎安親の攻撃対象になっている合田貞遠こそ、応永九年の一本鳥居銘文に姿をとどめている合田通基の先祖であろう。
 それでは、その合田貞遠はいったいどのような事情で祝安親の攻撃を受けることになったのであろうか。合田貞遠の人物像をさぐるために史料1の時代的背景をもう少し詳しくみてみることにしよう。
 合戦のあった建武三年というのはまさに日本中が動乱の真っただなかにあった時期である。元弘三年(一三三三)に足利尊氏・新田義貞・楠木正成らの協力によって鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、翌建武元年から新しい体制でいわゆる建武の新政を始めたが、武家と貴族の利害対立などによって早々に行き詰まってしまった。建武二年には、折りから関東地方でおこった北条氏残党の反乱(中先代の乱)の鎮圧を口実に足利尊氏が京都をとび出し、やがて尊氏は公然と建武政権に反旗を翻して京に攻め上った。陸奥から急遽かけつけてきた北畠顕家軍のために敗れた尊氏は、いったん九州に逃れて体勢の立て直しを図ろうとするが、その九州において、尊氏が天皇方の菊池氏を破ったのが、ちょうど史料1と同じ建武三年三月のことであった。
 このような動乱は、当然伊予国にも及んできた。このころ伊予国最大の豪族であった河野通盛は、鎌倉幕府滅亡時に幕府方に味方したために一時勢力を失い、かわって天皇方についた河野氏支族の土居通増・得能通綱や三島神社社家祝氏、忽那島の領主忽那氏などが優勢になっていた。このような状況の中で、建武三年四月に足利尊氏が九州から攻め上ぼってくると河野通盛は足利軍に投じて、伊予での勢力奪回を図ろうとする。史料1にみられる松前城をめぐる攻防戦は、ちょうどそのような時期に起ったのである。
 その攻防戦で攻撃の中心となった祝彦三郎安親は、鎌倉末期から建武期にかけての伊予国の動乱のなかで、後醍醐天皇方として中心的役割を果たした人物である。彼は、自分の手柄を絶えず報告書にまとめて記録しているので、その足跡を具体的にたどることができる。
 まず元弘三年(一三三三)には、越智郡石井浜(今治市)や久米郡星岡(松山市)で、攻め寄せてきた長門・周防探題北条時直軍を破り、ついで喜多郡根来城(大洲市か)で伊予の守護であった宇都宮氏を破って、国内の幕府方勢力に大きな打撃を与えた。また建武二年(一三三五)四月には、周敷郡楠窪・鉢野や赤滝城で旧幕府方の勢力と戦って手柄をたてている。祝安親の松前城攻撃は、このような一連の動きの一環としてとらえることができる。
 なお、一般には松前城攻防戦のあった時、祝安親は天皇方から武家方に転じていたとされているが、その可能性は低いように思われる。それは、史料1に示された軍忠状のスタイルが、天皇方の時期に出された元弘三年六月、建武二年六月の軍忠状のそれとほとんど同じだからである。安親が後に武家方に傾いていくのは事実であるが、この時期には、まだ天皇方にとどまっていたとみるべきであろう。とすると、その安親に松前城で攻められている合田貞遠は武家方ということになる。おそらく河野氏の与党として活動していたのではないだろうか。

史料1 祝安親軍忠状 [三島家文書]

史料1 祝安親軍忠状 [三島家文書]